《第25話・広沢町三丁目》
広沢の日限地蔵
疫病から住民を守る!
雲水の教えで地蔵祀る
昔々のことでした。全国を行脚(あんぎゃ)してきた雲水(旅の僧)が、ようようの思いでここ広沢御厨(ひろさわみくりや)にたどり着きました。広沢御厨は、雲水にとっては、長い長い山歩きの末にやっとたどり着いた人里だったのです。しかし、雲水は、広沢御厨に足を踏みいれたとたん、人里に着いたという安堵の思いどころか、大変怪げんな気持ちに駆られました。
雲水が広沢御厨に到着した日は、ただジーッとしていても、じっとり汗がにじんでくるほど暑さの厳しい夏の盛りでした。それなのに、どうしたことか、目の前に立ち並ぶ家々のすべてが、どこも障子をピッタリと閉ざしたままだったからでした。中には、雨戸までも閉め切ったままの家がある上に、辺りからは物音ひとつ聞こえてこないのです。しかも、御厨全体が、人のいる気配さえ感じさせないほどに、実にひっそりと静まりかえっているのです。
雲水が怪げんに思ったのも道理。このとき、広沢御厨内全域に、あいにく疫病がまん延していたのでした。里人たちの多くが疫病に罹患してしまい、死人の出ない日はないほどでした。御厨内は、まさに苦悩の極み、困惑の極みに達していたのです。野良仕事ができないままに畑は放置され、作物もまったく生気を失っていました。人も畑も、いいえ、御厨内全体が、まさに生死の境をさまよっていたのです。
里人たちから深刻な苦悩の様子を聞かされた、くだんの雲水は、
「疫病まん延の原因は、まさに仏罰!。」
と、大きくうなづかれました。
実は、雲水が広沢御厨に入ると間もなくのことでした。路傍に放置され、半ば埋もれたままになっているお地蔵さまを目の前にしたのです。あまりのもったいなさに、雲水は、その場にひざまづいて、しばし、お経を唱えてきたところだったのです。ですから、里人たちから嘆きの声を聞かされたとき、雲水は、すぐさま、そのお地蔵さまのお姿を思い浮かべたほどでした。
雲水は、さっそく、お地蔵さまが放置され、埋もれていることを里人たちに伝え、
「尊いお地蔵さまを、あのままにしておいてはなりませぬ。少しも早く尊像を掘り起こして、きれいにお体を洗い清め、寄居(よりい)の地に心を込めてお祀りなされ。さすれば、拙僧が悪病退散のご祈祷をして進ぜよう。必ずや里に安らぎが戻りましょうぞ。」
と、諭されました。
里人たちが、雲水に言われたとおり、寄居の地にお地蔵さまをお祀りしなおして、雲水のご祈祷をいただくと、不思議にもあれほど猛威を奮っていた疫病が、たちまちにして峠を越し、多くの罹患者が徐々に快方に向かい始めたのです。
数日後、里人たちからの感謝の眼差しを浴びながら、雲水は、新たな地を目指して、再び行脚の旅に出ました。
その雲水が旅立つときに残した、
「お地蔵さまのありがたさを肝に銘じて、お祭りだけは忘れることなく必ずなされよ。」
という言葉を思い出すまでもなく、里人は、毎年、心を込めてのお祭りを重ねるようになりました。そればかりか、お地蔵さまのあまりにもありがたい霊験、あまりにもあらたかな霊験に崇敬した里人たちは、改めてお地蔵さまの縁日を定め、以後いっそう盛大なお祭りをするようになりました。
その後、いつのころからか、お地蔵さまは人々に「日限地蔵」の愛称で呼ばれるようになりました。日を限って病気平癒や子育てなどの祈願をしますと、一層霊験があらたかだったからでした。そのため、年を経るに従って、お地蔵さまは、ますます里人たちの信仰心を一身に集められるようになりました。
現在も広沢町の古刹・広沢山大雄院(だいおういん)の参道前の覆屋内に祀られる、このお地蔵さまの胸元には、いつも真っ赤なヨダレカケが掛けられております。そのヨダレカケが、今も立派に信仰が生きていることを私たちに示しているのです。
尊像には、造立年は刻まれていませんが、大変に古様なお姿をしておられます。このことからして、お地蔵さまが里人たちのためにこの地で長い歳月に渡って、ご加護を重ねられてきていることを、私たちは伺い知ることができます。
《大雄院(だいおういん)》
大雄院は地元で「だいゆういん」と呼ばれ親しまれている。大雄院は、由良氏の重臣・藤生紀伊守(開基)と中里若狭守とで天正十一年(1583)に開創した寺で、宗派は曹洞宗。本尊は釈迦如来である。藤生紀伊守の墓は本堂右手に、中里一族の墓地は大雄院馬頭観音堂の隣地にある。
この寺は、この地域一体を支配した広沢氏の菩提寺「広沢山大王院」を再興したものという。寺宝の一つの刺繍釈迦涅槃図(ししゅうしゃかねはんず)は群馬県指定重要文化財。
《寄居(よりい)》
茶臼山は、かっての太田金山・由良氏の北の守りであった「茶臼の砦」である。この茶臼の砦の守備兵が交替で守備していた番所が寄居番所で、寄居は大雄院の辺り一帯からその前方の部分の総称である。
《日限地蔵(ひぎりじぞう)》
日限地蔵は地元では「子育て地蔵」とも呼ぶ石像である。「願主 野品伊右衛門 世話人 中里忠蔵 館林足利町 石工 佐七」との銘があるが、造立年は見当らない。像総高101・。かっては4月と10月の24日に祭りが営まれていた。
◆道案内◆まずは広沢町3丁目の大雄院を目指す。寺の参道入り口の真ん前に、この日限地蔵が安置されている。