4人でかつぎあげる!八坂神社の神輿の由来
今日は、世良田(新田郡)の八坂神社の祭典です。世に知られた八坂神社の祭典だけに、人出は殊の外多く、参道はたくさんの参詣人で朝早くから大混雑をしていました。
社(やしろ)の前には、八坂神社ご自慢の大神輿(おおみこし)が、すでに飾られていて、夏の強い日差しに光り輝いておりました。
「おう!お神輿(おみこし)が、もう飾られているよ。」
「本当だ。このお神輿を見なくちゃ、せっかくのお祭りにきた甲斐がねえってもんだからなァ。」
実は、この話し合いのように、大勢の参詣人の中には、
「お祭りなんか二の次だい。オレは、その大神輿をひと目見ようと、わざわざ世良田までやって来たんだよ。」
と、いう人も結構たくさんいました。大神輿は、それほどに立派であり、大きなものでもあり、また有名なものだったのです。
しかも、
「いつ拝んでも、本当に素晴らしい神輿ですなぁ。」
「それにしても大きいし、いかにも重そうだ。一体どのくらいの重さがあるのですかな。」
「わたしの聞いたところでは、二百五十貫(およそ940キログラムはあると言う話ですよ。」
「たいしたもんですな。あんな神輿がワシらの村にもあってくれれば、村の祭りもさぞかし盛り上がることでしょうに。」
などと、人々が、しばし足を止めて語り合い、見とれてしまうほどの神輿でした。
そんな話し合いをしている人々の前へ、正装の神観が姿を見せました。そして厳かな口調で、こう言いました。
「ご参詣の方々。皆さんは、当社の神輿のあまりの大きさに、驚かれておられるご様子じゃが…。いかがかな。ついでに力自慢の村の衆を募って、この神輿をかついでご覧になられては。ただし、かつぐのは4人だけですぞ。4人だけでかついで、そこのご神木を回り、そちらの鳥居をくぐり抜けて戻られたなら、その方々の村に、この神輿を無条件で進呈しよう。」
神官のこの言葉に、参詣の人々は一瞬どよめきました。
そして、
「これは凄い。ぜひ、ワシらの村へいただいて行こうじゃないか。」
と、村々の力自慢同士が4人ずづ組んでは、次々に神輿かつぎに挑戦をし始めました。
けれども、神輿は、見た目以上にズシーンと体に食い込んでくるような重さがあり、しかも「テコでも動かんぞ」といった、そんな重量感がありました。ですから、挑戦する村々の4人組は、大神輿を肩の上に乗せるどころか、腰の位置までさえ持ち上げることもできませんでした。
この日、如来堂村(現在の相生町一丁目)からも、大勢の村の衆が参詣がてら神輿見物に来ていました。そして、社前にひとかたまりになって、先程からこの様子を眺めていました。
初めのうちこそ、挑戦する他の村の4人組を励ましたり、ひやかしていましたが、次々に失敗する光景を目のあたりにしているうちに、だれ言うともなく、
「ワシらも一丁やってみようじゃないか。」
と、お互いに挑戦する気構えを盛り上がらせてしまいました。
そして、とうとう、
「そうだよ。こんないい機会を指をくわえて見ているって手はねえよ。」
「そうだ。あの大神輿を持ち帰って、村の衆をびっくりさせてやろうじゃないか。」
という話になりました。
「善は急げ」とばかりに、すぐさま村の衆の中から、剛力の4人の若者が選び出されました。そして、他の村の衆に元気付けられ励まされて、大神輿に近寄って行きました。
4人は、ねじり鉢巻きをし手にツバすると、腰をグッと落とすやいなや、渾身(こんしん)の力を込めて、グイッと大神輿をかつぎ上げました。とたんに観衆の間からドッと感嘆の声が挙がりました。初めて神輿が4人の肩の上に乗ったからでした。
4人は心をひとつにして、慎重に一歩また一歩と歩き始めました。その慎重な歩みは、ついに、ご神木をひと回りし鳥居をもくぐって、神輿を元の場所に戻してしまったのです。観衆からは、前にも増して大きな歓声と、どよめきと拍手が沸き上がりました。
世良田・八坂神社での力くらべで、如来堂の若者が獲得してきた大神輿…。現在は相生町1丁目の八坂神社にしっかりと安置されています。そして、年に一度の夏祭りに出座しては、その雄姿と昔からの伝えとを町の人々に披露してくれています。
この神輿獲得の力くらべは、江戸末期の安政のころ(1854〜1859)と伝えられ、社殿内には、当時の由来を記した扁額(へんがく)が、今も誇らしげに掲げられているのです。
<如来堂八坂神社(にょらいどうやさかじんじゃ)>
如来堂の八坂神社は、同賀茂神社(上野12社の広沢賀茂神社からの分祀説、京都の賀茂神社からの分祀説を有する)の境内に併置されている。伝説の大神輿は飾りの少ない黒塗りの神輿で、一見して重量感がある。そのため、一時期は、余りの重さに町内だけでは担ぎ手が集まらず、浅草・三社祭りの担ぎ手を招いて渡御させたこともあったという。例年は、学校が夏休みに入った初日曜日に渡御している。