『絵描きより詩人型』を自認していた山口薫。その日本的叙情性として語られる彼の芸術世界は、一体いつ頃完成したと考えればよいのだろうか。この疑問から本展「源流・山口薫」は始まっている。
既に日本の近代洋画史に確固とした評価、位置付けを持つ山口薫。これまで多くの回顧展、画集等で彼の生涯は幾多言い尽されてきた。
ここでの解説作業は、生涯を画歴と共に時代区分するのが常道である。この事は、作家研究が進み歴史的位置付けが既に成された画家であるという証がひとつ、そして逆に言うなら表現の変遷が比較的区分し易い、つまり時代ごとの方向性が明確であるという事がひとつ、言える。
本展では先輩諸氏の研究成果を踏まえ、山口の60年に渡る生涯を以下のように捉えてみた。
まず『世に言う山口の山口らしい作風』は戦後になり確立した。これは1950年代の高潮期、その後更に自身の描かざるを得ない感覚が突出した1960年代、この2つを合わせた1946〜68年(没年)を以て『成し得た独自の表現の時期』と位置付ける。
よってこれに至る期間が『源流』となる。この源流期を更に3つに分ける。『初期』と呼べる1926年(19歳)まで。東京美術学校3年の頃に表現行為としての絵画の在り方に気付き、卒業後滞欧し新表現の波にぶつかる事となる1927年から1933年の時期。
更に帰国後、新時代洋画展及び自由美術家協会結成へと続く時期において、自分なりの表現を模索し挑戦していく1934年から1945年(終戦)。・・というものである。
ここで考えたい事に、『世に言う山口の山口らしい作風』の確立を得たとした1946年当時の年令である(無論それ程明快に画業の区分は成立するものではないが)。山口はこの時、四十を目前とした39歳になっていた。当館の主軸画家・松本竣介、野田英夫の例を上げるまでもないが、世に持て囃された夭折の画家の部類に少なくとも山口は入らない。
また画業が何歳くらいで確立するといった類いの平均値など私は持ち合わせていないが、一般的には十代後半から三十代前半にひとりのピークを迎えるのが普通ではなかろうか。
つまり山口の場合、むしろ晩成型と呼べなくもない。本人の自己分析の言葉に「にえきらない男」「ぐずぐすしていた」という件もある。更に面白いのが後年得意としたモチーフのひとつに「牛」がある事だ。この2つを彼の人生に重ね合わせる作業は、決して面白くないこともない。
山口は、いずれにしてもトイレの水の泡、テーブルクロスの染点などの抽象的な形から、ヒントなりイメージなりを得ていたという。それを今度は逆に具象的に還元し、その中に無限な日本人的感性を刺激する詩情溢れる作品を塗り込んだ画家であったのだ。ここからその軌跡を簡単に辿ってみたいと思う。
(尚、生前の山口は自身の事を様々文で遺している。よって以降は引用を多用し説明を進めてみたい。つまり山口自身によって語らせたいのである。)
1907年(明治40)生まれの山口薫。彼は群馬県箕輪村(現在の箕郷町)に生を受けた。ここは古くから信仰の山として知られる榛名山の裾野に位置する静かな佇まい農村である。
山口家の先祖を周防国山口(山口県)の出で、戦国の世からここに住み着いた旧家であり、総本家は代々名主を世襲していた家柄であった。分家した上の本家が山口の生家である。彼は八男三女の末っ子として生まれ、大家族の温もりの中に少年時代を過ごした。
そしてこの少年時代こそが、結果的に生涯を方向付ける時期となったのである。この地に戦国の世から語り伝えられる箕輪城跡の悲話、そして周辺に広がる田圃を斜めから見た菱形の印象など、後年の作品を形成する要素を『原風景』としてこの時期既に捉えている。
また山口は「何も彼も兄まかせで育って来た」「兄弟のすることをまねしていれば用が足りた」(自画像 昭27)という受動的性格の少年であったという。これがある種飛躍的な画家としての第一歩を踏み出した処にも、優しい家族からの協力があった。
元々絵は好きだったが、兄が写生に行く度に同行し、また姉から油絵具の道具を送られ、従兄が先に東京美術学校に入学した事などあり、直接、間接的にそこに導かれる環境下にあったと言えよう。尚、この山口家の素朴な温もりは現在の家人によってもしっかりと引き継がれている。
この時代を物語る作品として中学時代の絵日記と画帳が3冊(出品No.1〜3)残っている。これは高崎中学(現在の高崎高校)に通っていた15歳の時描かれたもので、現存する最初期の作例のひとつである。手の内に軽く納まる程の手作りのこの冊子。
ここに綴られた絵と文から、山口の先天的才能を見い出すのは容易である。しかしそれ以上に人となり、ヒューマンな一面が垣間見られる処が実に魅力的であり、見ていてとにかく楽しい。またこれは既に復刻版も刊行されている。
会場において、内容はこの復刻版で楽しんで頂きたい。繰り返しとなるが、やはりこの中にも牛や森、田圃などが度々登場している。楽しい中学時代を過ごし、水戸高校の受験に落ちた山口は、東京美術学校(現在の東京芸術大学、以下美校)に通う事となる。
「美校ではデッサンだけだったので、まあ面倒がなくてよいという位の気持ちから」(アトリエ閑談昭28以下無表記の「」同じ)受験を決め、その為、川端画学校に通いデッサンを勉強した。無論上記の言葉には性格の奥ゆかしいさも含め考えなければならないが。
話は飛ぶが、山口が後年行き着いた画面は一見すると唐突で感覚的、極端な叙情性の行き過ぎのようにも見える。また事実そういった指摘もあった。しかし画面の構成的要素を探してみると最低限というより最小限、ギリギリのボディーとなる構成の基本ルールが存在している事が解る。
つまり画面のルールは最小限にまで落とし、その分彼の求めたものを優先させ、この奥深い感覚を何とか表現というレベルへ確立させようとしていたのではなかろうか。またそうでなければ作品としての自立性は保てず、人が感動として納得出来るものは成し得なかっただろう。
そしてこの基本ルールに関して言うなら(徹底的とは呼ばないが)基礎として身に付けたのが、いわば修練の時代、つまりこの『初期』の頃だったのである。『初期』の作例として『卓上静物』(出品No.5)が上げられる。
これは彼が帝展入選という世に評価を得た記念碑的作品である事は間違いない。しかし基本に則った真面目な画風、アカデミックな表現という観は否めないだろう。無論この時はこの時として必要なステップであった事もまた間違いない。そしてこの段階から踏み出し『表現する絵画』へと飛躍する過程は、これ以降の話となっていくのである。
本人は否定しているが、美校時代の彼は割と優秀な学生であったようだ。二年の春には特待生も取った。しかし「卒業の時は尻から3番目」となった処にいかにも山口らしいさが窺える。やがて三年時に川島理一郎の主宰する金曜会に参加するようになる。ここでは、これまでの手本どおり描く事に慣れていた自分から、「進歩的な人たちの間に入って見ると、見当がちがって戸惑った」となり「絵はむずかしいものだったということが、初めて、わかって来て、苦しみ出しました。」となるのであった。
そして卒業から半年の後、足掛け4年間の渡欧生活を山口は送る事となる。この切っ掛けというのが彼らしい以下の話である。画友が渡欧する話を聞いた家人の中で、中学時代に絵具を買ってくれた姉が、兄に勧めてくれて「ぐずぐずしているうちに、自然にいくようなことになったようなことで。」
しかし23歳の山口にとっての渡欧生活は大きな刺激となるのであった。本人の言葉によると「勉強になったのはルウヴルその他で美術史で習っただけで実物に接する機会のなかったエジプト、アッシリア、ギリシャなどの古代芸術を、じかに、くりかえし見ることが出来たことで、その感動は忘れられないものです。」「行く前にはドランに心ひかれていましたが、私が向うに行った頃のドランは、少し細かくなり過ぎたようなところがあって、どうも学校の頃考えたような共感は感じられなかった。
それに比べてマチス、ピカソ、ボナールなどは生々としていて驚きましたね、中でもマチスの色彩に、心がひかれはじめました。」そして「日本を離れて見て、はじめて日本のもの、東洋画の精神とでもいうものの深い、しみじみした味がわかったことです。墨絵の味などは特に。」と回想している。尚この墨絵の興味は、最晩年60年代の作風に顕著に引き継がれて行ったように思われる。
そして帰国した1933年の翌年、山口は渡欧時代の交流を切っ掛けとした新時代洋画展の結成に参加する事となる。この会は約3年間に渡り活動し、ほぼ毎月、30数回に及び開催されたグループ展であった。正に驚異的に。またこの時代は新興の意気が熾烈に燃え盛っていたと評された時である。同様の勉強会的要素の強い小グループが多く発生した時代であったのだ。新しく『グループ展』という可能性が開けた時代であったとも言える。彼らも同様にこの時代の渦中にあったのだ。帰国後「あいかわらず、写実主義ですすんでいました。」という山口であったが「その後結婚の破綻などから精神的打撃を受けて、精神衰弱になり、半年ばかりも郷里に帰っていたことがあります。」という。そして「心のゆとりが出て、又描き出しましたが、その頃、単なる写実の無意味というものにおもいいたりました、感動の真実ということ、それは東洋の写実の精神でもあれば、モヂリアニや、ゴーガンの道でもあるように思えます。自由美術協会を、パリ時代の先輩たちと作った時、ネオロマンチスムを旗印としてかかげたのは、こうゆう理由からでした。」
帰国してから4年後、上記の精神の経緯を経て、山口は自分の様式を確立し世に登場していく。自由美術家協会結成、第1回展であった。ここから4回展にかけての時期が、作風が大きく飛躍する時となる。ここでがらりと変わぬ処が、いかにも山口らしさと言えるのかも知れない。一口に抽象カラーとうたわれた自由美術家協会にあり、かつ創立会員の一人だった山口、彼はこの時期どう展開しようとしていたのか。戦後の言葉に次のようなものがある。「私の国籍が写実にあるのか抽象にあるのか私は知らない。或はロマンティズムという方が当たってるかも知れない。然し写実を底に秘めないロマンティズムは頼りないものと思う。」(抽象教授の悩み 昭29)、「中間派だっていわれるけど、具象と抽象とわけるとすると、その境い目のせまいところをわたっているんですね。」(法隆寺の焼柱にひかれて昭32)。この時期の作例としては、最も抽象的傾向に近付いた『紐』(出品No.20)、事実的イメージ性の強い『葬送』(出品No.24)などが上げられる。戦後に行き着く事となる『世に言う山口の山口らしい作風』。この時大きな表現の振幅を繰り返しながらも、しかし無茶のない自身の着実な歩みの中で、既の行くべき方向性の予感を山口は感じていたと思う。この時期、戦前の代表作と呼ばれる作品がめきめき生まれていった。
1944年、山口は『葬送』を描いた。この年に亡くなった母の野辺の送りを描いたものであった。また同年には『母・佐登の像』(出品No.25)という肖像画も描いている。私は生前に描いた肖像画の内でもこの作品は一番に光輝いていると思う。文字通り母の存在が、山口にとっての母郷の象徴であったと思わざるを得ない、そんな作品である。そして母もまた、最後に遺した言葉が「薫」だったのであった。
戦後の山口の活躍はすばらしい。次々と国際展に出品し画商の注文に追われる日々となった。彼は名実共に『生前に評価を受けた画家』となっていったのである。『好きな絵描いて、ドシドシ売れたら絵描きはやっぱり幸せだろう』と私も思う。しかし絵描きの幸せとは。静かに画想を練る時間を失い、その為に過度のアルコールとの付き合いが始まり、最後はこれが自身の寿命さえ縮めた山口。『それでも画家として立ったなら評価は嬉しかろう。画家は絵の中に自身を切り込め人生と引き替える商売なのだから。』
私になぞ、答えは出ないようだ。
私が好きな山口の言葉に、こんなものがある。
・・残しておきたいものがある
私の手垢である
自分のために
(学芸課長)