「顔」展によせて
大川 栄二
予定されていた磯辺行久・源流展が当館側の拙速作業で無期延期となりたる為に、急遽穴埋めに登場せる当展だが、逆にある種の気負いが無いので素朴な切口となり一寸愉しい展観になったようである。そして手前味噌のようだが、四千点を超える収蔵作品の有難さを肌で識らされた。
私はいつも、久し振りの後輩に会った時に、一番気になるのはその顔の表情とか印象である。ある種のいい顔をしていたらただ嬉しく、彼がどんな身分になっていようと「いい顔になったなあ」と握手するのである。
確か3年前に三鷹市美術ギャラリーで日本の自画像展があり、当館より松本竣介作品を出品した覚えがあるが、「顔」全体の展観は昨今私の記憶にはない。ただその前年に当館では、幻の画家・石井壬子夫が晩年にかけ、約20年間毎日描き続けた壮絶な六千枚の自己像より百選展を開催した時の覚えが強烈であり、本展はその継続として無意識に浮上したのだろう。
とにかく「顔」はその時代背景を背負い、その技法や技量を越えて画家のこころと対象人物の総てがハーモニーして、みる人にはある物語が浮上し人間の歴史までもみえてくる。
先人の言葉に「人は40才にして顔に責任を持て」とあるが、本人がどんな偉い人とか無名人とかに全く関係なく、人相というその人間の本質が浮上する面白さがある。こんな処に俗な引例だが、人間、静物、風景、抽象等々の絵画の庶民的分類の中で、その名画の価格が明らかに人物に一番高額のものが多いのは、この絵の拡がり、即ち面白さと私は踏んでいる。特に近代絵画に於いてどんな王侯貴族や紳士淑女のきらびやかな絵よりも、フェルメールの遺した女中さんの生活図の方がどれだけ気高く優美な香りを放つかは誰でも識っていよう。
だから私は、昨今の世界、特に日本社会で顕著になっている銭ボケ、名ボケ、位ボケの流れが如何に横溢しようとも、21世紀に向う人間の叡知の土壌だけはまだくさっていないものと信じているのである。
本展は内外63画家により71点の作品を一応4つに分類して展示しているが、この分類はあくまで幣学芸員の主観である。よってこれだけにこだわらず皆さんの自由な感性の許に、個々諸々の価値観となり、その残映が翌朝の鏡の顔に重複すれば一番嬉しいことだが・・・・・・。
さあ、どうでしょうか。
(理事長 兼 館長)
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