〜 大島が感じる須田剋太像 〜
O 》 よろしくお願い致します。本日は色々とお聞きしたいのですが…、先ずは須田先生について、大島さんが単にコレクターとしてではなく、私的にも直接お付き合いされた中で感じられた事をお聞かせ願えればと思います。
大島》 とにかく先生(須田剋太)は、「自分は絶対残る画家にはなっているはずだ」という生き方をしたと思う。しかし「世間が認めてないだけだ」と思っていたようです。
O 》 つまり、「その世間が何で分からないか、認めないのか」というジレンマは持っていた?
大島》 持っていた。ムチャクチャ持っていた。
O 》 そして自分への自信は絶対的に持っていたんですね。興味があった画家などは?
大島》 とにかくHとか、H(ともに日本画家)とかは絶対嫌いだったね。
O 》 書き遺したノートを見ると、北川民次とかお好きだったようですが。
大島》 そー、それと村上華岳。わたしも好きだと言ったら「おー、おまえも判ってるなって…」。それと福田平八郎が好きだったようですね。それと先生は最後に『赤とんぼ』とか子供の絵を描きましたけど、つまり子供! 「百歳になっても子供の気持ちで絵が描けないと、絵なんか判ってないはずだ」と言っていた。私なんかが思うに、それが(故意に)意識してやっているのかと思う時もある位に強く拘っていたと思う。
O 》 作品を見ても変に仕上げるとか、きれいに纏めるとか、していませんものね。
大島》 普通の人だったら、こう描けば売れるとかいう事をするじゃないですか。だからね、わざと「これだったら買えないだろう」とういう描き方もしていたんですね。百点描いたらその内、何点かはそんなのを描いて、それが売れたら「これが自分の実力だ」と思う訳ですよ。
O 》 「やっと判ったか」という処なんでしょうね。
大島》 花とか描けば売れるのは判っていても、壷とか、坊さんとか描いて、(世間を)『試す』という気持ちですかね。
O 》 最晩年の2〜3年は作品が飛ぶように売れましたよね。長者番付に出るくらいまで…。その頃ですね、大島さんが作品を買ったり貰ったりしつつ、プライベートでも先生と親しく交流されたのは。
大島》 そーですね。新聞とか雑誌にも取り上げられて、お好焼き屋に須田剋太の作品があるという事で。先生の所にも「お好焼き屋に(作品を)寄付したのなら、家(うち)にも寄付して下さい」て電話が沢山、先生の所にもあったみたいですよ。でも先生は「自分のファンであって、(店に)絵を飾りたいと言った最初の男だ」という事で、「最初の人が一番大切」と言って断ったそうですよ。
〜 出会い・須田先生と司馬先生 〜
O 》 大島さんは(店の)お隣の鍼灸師の方と知り合いで、そこへ司馬遼太郎先生が治療に来ていてお知り合いになり、そして須田先生を紹介して頂いたのですよね。(司馬遼太郎著『街道をゆく』の挿絵を19年間、須田が担当した)
大島》 そうですね。私もただのお好焼き屋ですからね。資産家でもないし。最初に店を増築する時に須田先生のガッシュでもいいから、1点でもいいから、直接安く欲しいなと思って、司馬先生に(紹介してほしいという)お願いをしたのが切っ掛けでした。そうしたら、どんな店かなって見にこられてね。70坪の店に1点じゃあという事で、ここも、あそこも飾れるって仰って、今まで描いたやつ(旧作)を26点下さったんですよ。
O 》 今回の出品作『ジャンク』もそうですね。
大島》 ええ。店に合うようなものを選ばれて持って来てくれたんですよ。いくら下さるといっても「代金を」と思って用意したお金を持っていったら、「私はお金を貰おうと思って上げたんじゃない。だからお金を置いていくなら、みんな引き上げる」と仰って。その晩、司馬先生に経緯を報告したら「本人がそこまで言っているのだから、好意に甘えたら」と言われて。「そのかわり年取った3人(須田先生、奥さん、お手伝いさん)が生活しているのだから、店の定休日でも窺って楽しく食事でもしたら」と言われたんですよ。それで、最初は静子(夫人)と一緒に食物を持って行ってただけだったんですけど、その内に5人で語らいの場にしようという事になって、夕方5時すぎに行って12時頃まで毎週、西宮まで伺うのが続いたんですよ。それが1987年の7月から。89年の12月の入院、そして入院してからも伺いましたから、亡くなるまでの丸3年間のお付き合いでしたね。
O 》 須田先生の好物は?
大島》 んー。先生はね、メリケン粉で出来ているもの。
O 》 お好焼き!
大島》 それと、きつねうどん。ぶたまん。粉で出来ているものが好きだったね。それと甘いもの。
〜 須田先生と司馬先生から学んだ事 〜
O 》 ところで司馬先生とお話されるようになったのは?
大島》 隣の鍼灸師さんが司馬先生と30年の付き合いで、「(隣の)繁盛しているお好焼き屋はどんな人が営業しているのか?」て話題になったらしくて。1981年頃でしたね。
O 》 司馬先生とのお付き合いの方が永かった…。その中で学んだ事などありますか? だいぶ叱られたとお聞きしましたが…。
大島》 『生きていく上に自分の行動に対して何でも最後に説明がつく』という事でした。言い訳でなくてね、責任という意味。
O 》 須田先生から頂いた言葉は?
大島》 それは『人との差異』、違いですね。一緒だったら何の値打ちもない、という事。自分なら自分だけ持っている物があるという事。普通に生きてたら普通のままで、貢献しないという事ですよね。社会にも文化に対しても。だから須田先生は、人がやらない事をやる、人が描かない物を描く、という事だったのでしょうね。それは私(自身)も自分の生きる道とそう思っていますからね、人と同じだったら生きてる値打ちがないですね。
O 》 それぞれの先生らしい言葉ですね。大島さんにとってお二人は大きな存在だったのでしょうね。
大島》 巡り合ったという事は、私にとって凄く幸せな事でした。
O 》 ところで司馬先生は須田先生をどう見ていたのでしょうか? 19年の付き合いの中で。
大島》 「須田さんは世間を何も知らない。ただ絵だけ描いている人。書もおもしろいが、私(司馬)は抽象が好きだ。また油絵よりも東洋的な、個性が出ているガッシュが好きだ」と言っていました。
O 》 司馬先生は、喫茶・美術館(大島が経営 P.45参照)のパンフレットに抽象について書いていましたね。須田先生の抽象作品で宇宙が実感できたと…。
〜 須田先生から未来を託された大島 〜
O 》 大島さんは作品購入とは別に、須田先生から沢山の物を頂きましたね。作品では抽象でも具象でも。珍しいものでは手紙や研究ノートまで。『上げた』というより『託された』という感じですよね。最晩年に須田先生が、公立の施設に抽象作品を纏めて寄贈した事とは意味が違うように感じるのですが…。大島さんとして、それを受けとめる側の気持ちはいかがですか?(P.43参照)
大島》 それは…自分で言うのは何ですが「この男なら私(須田)の記念館を造って、私を顕彰してくれる男じゃないかな」と考えてくれたんじゃないかなと思ってます。
O 》 先生が公立の施設に抽象作品を纏めて寄贈した事に付いては、どう考えられますか?
大島》 先生は「抽象は売る作品として描いていない」と私は思ってます。だから公立で保管してもらう。具象ならファンが幾らでもいるから、持ってくれるだろうと。私も具象はそう沢山は貰ってはいないけれど…。先生は最後に、「喫茶・美術館の2階も具象の新作を展示しましょう」と言ってくれてたのですが、病気で果たせなかったですね。「残念だった」と仰っていた事を後で聞きました。しかしお陰さまで、今現在は、東大阪の伊古奈(お好焼き屋)と喫茶・美術館、それに長野県の小海町高原美術館で須田先生の作品を皆さんに見て頂ける場所が確保出来ています。ただこれだけでよいとも思ってはいませんが…。
〜 須田先生の抽象・具象 〜
大島》 ところで須田先生は「街道をゆく」(1971年から挿絵を担当)を始めてからは、抽象の新作は描かなくなったんですよ。具象だけで。だけど国画会では「街道をゆく」が始まった後も発表するのは抽象だったでしょう。それが矛盾しているのですが、前に描いてあった物に年号を入れて出品していたんですね。
O 》 それが晩年における作品調査の混乱の元ですね。今回出品の中にも、制作年代に明らかに問題ありの作品もありますね。(cat.28など)
大島》 だから一般の人は「街道をゆく」が始まった後も抽象、具象、両方やっていたと思っちゃうんですよ。
O 》 それならば、具象に戻ったとしてしまえば、いいように思うのですが。
大島》 それは長谷川三郎に会って(1949年頃)随分と影響を受けて、抽象の世界に入って…、そう『それを守った』という事なんでしょうね。そうゆう自分でありながら「街道をゆく」の挿絵に折角推薦してもらったのだから、個展では具象にしたという事なんでしょうね。具象を捨てるというよりも卒業するという意味で。でも先生にとっては、具象をやっていても抽象の気持ちでやっていたから(それは)抽象だったんじゃないかな。とにかく「やってのける」という意味で抽象も具象も一緒だったんでしょうね。
〜 大島コレクションの経緯、そして夢 〜
O 》 話の順番が遡りますが、もう一人、島岡達三先生の作品も蒐集していらっしゃいますが、これはいつ頃からですか?
大島》 27歳から(1967年)。結婚してからだから。
O 》 それがコレクションの始まりですね。何が切っ掛けで?
大島》 生活の必需品を手作りのものから集めていこうというのが始まりですね。だから家具も松本民芸家具、食器も島岡先生で揃えようという事ですね。
O 》 島岡先生と直接お付き合いされるようになったのは?
大島》 35歳から(1975年)。買い始めてからの8年間は声を掛けないで、島岡先生は民芸作家ですからね。あくまで使えるものとして買いました。私としては金儲け、つまり資産として買いたいと目を付けた作家は幾らでもいましたが…、だけど私は金持ちでないからやっぱり集めて生活として、必要なものとして買いながら楽しむのは、(結局)民芸の島岡であったという訳ですよ。陶芸家でもすばらしい人はいますが私の力では使いきれない、買いきれなかったんですよ。
O 》 それと日本画の竹内浩一の蒐集ですね。
大島》 40歳(1980年)の時ですね。日展の特選を取った作品を見て感激して、すぐにお宅へ伺いました。私としては、あれもこれもと(色々な作家を)集めたくない。だけどトコトンやる。洋画は須田、陶器は島岡、日本画は竹内。(つまり)浮気をしたくないという事。他にもいいと思う人はいる。しかし『裏切りたくない』という人間性、ただそれだけですよ。この3人くらい(のコレクション)なら何とか私の力でも…。須田先生が私に託されたという事に(対し)報いる意味であって他にはいない。と言うか、いるようにしたくないという事です。
O 》 自分であえて枠を設けて、『自分でやる使命なんだと自らに思わせる』ということなのでしょうね。
大島》 そう、私はコレクターとして、部門、部門で、第一人者という訳ではないが、惚れた人を彫刻なら誰、版画なら誰という風に何十種類でもやってみたい夢があります。例えば彫刻なら舟越桂なんかやってみたいですね。木彫はいいですよね、一点ものだから。複数出来てしまうのはちょっとね。そして美術館で展覧会を企画する立場になりたいですね。
O 》 そうなると大島さんをコレクターと呼ぶのは問題ありということになりますか?
大島》 問題ありますね。私は金持ちでもないし、お好みのおっさんで貧乏ですから(笑)。
O 》 作品を所蔵している事でコレクター?
大島》 だから私は、人を裏切らないコレクターになるために実績を付けなければならないんですよ。一人二人は全財産を使ってでも、そうゆう形を作ってしまえばいいんですけどね。だけど芸術家というのは金で生きてないんですよ。誰かに託そうという芸術家が増えればいいんですよ。私はそうゆう男になりたいです。建物なんかは公共に建てさせればいいんですよ。私の財産がどうのという事など関係ないです。「大島に任せたから俺は一流になれた」作家にそう言われる男になりたいですね。
O 》 そうですね。作家というものは、無論個人の生活を成り立たせるという事はありますが、とにかく世に認められたいという気持ちが一番ですよね。須田先生もそうだったように…。
大島》 いい作品を遺せば、百年でも千年でも遺りますよね。それを育てる仕事をしたいですね。名も無いいい物が、奈良でも京都にでも沢山遺っているじゃないですか。芸術家はそれが生甲斐の筈ですよね。いい物を歴史に遺したいという。だからそれを遺す場所を作る男がいればいいんですよ。だから私は思うんですけど、公立の美術館は沢山の人を集めすぎてるんですよ。作家数でいったら300人、400人と。だから何処でも何年に一回しか展示できないという風になってしまうんですよ。個人の美術館、記念館を色々な所に遺す、それが私の使命だと思うんですよ。『あそこに行けば、あの人の絵が見れる』それでいいんですよ。そこに行けばその人が研究出来るという様に…。うーん、大川美術館はチョト集めすぎ(笑)。
O 》 私もコレクターの方、何人かは存じ上げていますが、その辺りが大島さんの場合違うように感じるんですよ。所有欲の有無というか…。
大島》 私の場合は最初からそうゆうのはありませんでしたね。お金が幾らあっても足りないし、第一、自分の生甲斐として値打ちがない。
O 》 確か大島さんを紹介して以前の雑誌の記事に載っていたコメントで、「美術品を集めようとしたのではなくて、美術館を創りたかった」というのがありましたね。
大島》 そうだったですね。
O 》 今回の展覧会開催を決定したのも、単にコレクションの名品展をやるのではなく、大島さんのそういったコレクターとしての姿勢がおもしろいと思ったからですよ。
大島》 作家は死んだら何も言えないでしょう。司馬先生でも須田先生でも…。
O 》 本日はお忙しい処、ありがとうございました。 |