財団法人 大川美術館     OKAWA MUSEUM of ART, KIRYU

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作家とコレクター
須田と大島の場合

岡 義明

俗臭粉粉? 逆に次元を超越した高尚性? はたまた芸術とは何かという大上段に構えた問い? 須田剋太の作品は変幻自在に、まるで人を食ったかのように…柔軟性という言葉だけでは捉えきれない芸術世界を展開する。須田という人格に宿るカオス! この実体のみが成せる産物なのであろうか?

  永きに渡り、関西画壇を基盤に活躍を続けた須田剋太(スダ コクタ)。84年の生涯を費やし繰り広げられた彼の表現活動は、一口に『至極難解』と評されている。

 1906年埼玉県に生まれた須田は、既に40歳代前半までの段階で、官展で特選を3回受賞するなど世に認められていた。しかし1949年、抽象のパイオニア・長谷川三郎(1906〜1957)との出会い、また同時期、禅への深い傾倒を得て、表現は急速に具象の世界から離れていく。そしてその活動の場は当然のように在野へと下り、やがて1950年代以降、当時隆盛を極めた関西抽象の旗手として名を馳せていく事となる。その20年後の1971年からは本格的に具象表現を再開。しかし更なる独自性を追求するその表現は過去の栄光にすがる事なく、無論そのモチーフも伝統に留まるものでもなく、舞妓、高校野球など通俗的なものまでもその範疇とした。正に『絵に描けぬものなどない』という具合にである。一方、書の世界とも自在に交流し、現代書の一翼を担うまでの存在ともなった。また前記した具象再開の契機となった司馬遼太郎(シバ リョウタロウ)の人気シリーズ「街道をゆく」の挿絵担当画家としての活動は、十九年間にも及び、これにより世間一般に広く人気と知名度を持つ事となる。ましてその人気に押されて作品が売れに売れた最晩年には、長者番付で洋画家トップになるというおまけ付きである。何とも忙しき生涯と言えよう。

 以上のように須田の表現活動は、具象、抽象、書、オブジェ、挿絵と多岐に渡り、また夥しい数の作品が遺されたのであった。しかしこの軌跡は現在、我々鑑賞者に対し大きな戸惑いを感じさせるだけでなく、更に作品自体の評価を両極に二分させる由縁ともなっている。

 この一筋縄では括りきれない須田芸術の世界を、個人コレクターというひとつのフィルターを通じて検証してみようというのが、今回の試みである。

 ところでこの『個人が美術品を多数蒐集するというコレクター活動』であるが、西洋においては産業革命以降に始まり、それが本格化したのは19世紀末からの事と言われている。一方我が国においては近代以降、戦前のビッグコレクターの時代を経て、戦後、特に近年においてはその数も格段に増加する状況にある。しかし自称、他称を問わずこの者たちの中でも、取分け『ビッグ』を冠するための条件、いわゆる『美術に対する社会的支援者である』という気概に関しては、逆に戦後は少なくなったと言われている。しかしこと大島夫妻に付いて申せば、彼らが規模および資金的においてビッグであるかは別にしても、この気概を兼ね備えた人物である事はここに明言出来よう。

 元より当館は個人であった大川コレクションを母体に発展してきたものである。ここから考えても個人コレクションとは単に作品の集合体ではなく、ひとつの思想を背景とした芸術の如く捉えている事はご理解頂けるだろう。そして開館以降の企画展においても、すでに2回個人コレクション展を実施してきた。つまりこれらの展覧は、単に個人所有の作品を一般公開する名作展ではない。コレクションとはそれぞれの価値観により蒐集され形づくられたものであるため、必然的に個々の作品を(ある意味で)利用し、ここから新たに創造された人間の芸術哲学を代弁するものと考えている。よって展覧会(企画展)は、それを展示という形で具現化する試みとなるのである。

 


 さて今回の大ヨウ・静子(オオシマ ヨウ・シズコ)コレクションであるが、彼らは自らの私財を投じたコレクションに、須田作品と他数名に絞った作品しか加えようとしない一徹のコレクターである。そして彼らの場合おもしろいのが、単に購入という手順で須田作品を蒐集したのではなく、作家との、より私的な深い親交のなかで 500点に上る作品、そして研究ノート、遺品、手紙類等の関係資料類も譲り受け、更に記念館設立の夢までも託された人物であったという点である。つまり言うならば単に『買った、譲られた』のではなく『託された』というニュアンスの方がこの場合適当である。少なくも大島夫妻ご自身はそのように感じ、またその責務を全うしようとしている。そして現在、作品の一部は小海町高原美術館に寄託、また関西の自宅に隣接する私設美術館において展示はなされてはいるが、その全貌は未だ全公開されるまでには至っていない。

 須田剋太という巨人の創造した芸術の世界。とても断片的な作品鑑賞だけで掴みきれるものではない。そして作家の没後、その評価の行く末を託されたコレクター大島夫妻。彼らは、その任務が生涯続く事を肝に銘じなければならないだろう。

 つまり今回の企画展の主人公は3人いるのである。展覧会メインタイトルの須田剋太、そしてサブタイトルの大島ヨウ、静子である。更に彼らの関係を繋いだ彼の司馬遼太郎を含めると4人の登場人物がここに浮上する事となる。この辺りの人間臭さの強調においても、他館とは一味違う、当館らしい企画の展開と自負する処である。

 さて今一度、須田作品について考えてみたい。上記したように作品の評価は両極に二分される。全肯定または全否定という具合にだ。実際私の近くにも『須田剋太の展覧会があれば何処へでも飛んでいく』という者と、『あれは自分本位で気持ち悪くて、とても見ていられない』という者とがいる。中には『何だか解らないが、とにかく凄い』という者も…。その何れが正しいにしても、彼の表現が他の作家に比べて、一歩も二歩も抜きん出ている事の逆説的証明には違わないだろう。そしてこのような状況に対し、私は次の事を想起する。

 先ず須田が、近代美術からの流れを汲むいわゆる画家であるのか、または現代美術の作家であるかという問題を念頭に置く。そして昨今の現代美術作家どおしの間でよく行なわれる議論と同じく、作品を発表する段階での対象者である鑑賞者を、明確に念頭に入れた『作家』としての(公的に)発表する側の姿勢、またそれにより作品中に存在するはずの作家・鑑賞者間の共通認識や、鑑賞する際の基本ルールの認識を考えてみたい。尚この議論は、作品が存在するその時代の社会性や時間性を、多分に作品の要素として組み込もうとする現代美術だからこそ特に重要視され行なわれるものであろうが。しかしこの認識は何も現代美術に限った事ではなく、本来が表現手段である美術においては必然的に備わっている要素であるはずだ。つまり、これを須田の場合に当てはめると、作品中の主張やイメージが、画面の中で鑑賞者に対し、その意図を読取り易いように、より丁寧に構築され完結させようとする配慮があるかという論点になる。つまり近代美術的に申せば、バランスよく『纏っている作品』であるかという事である(尚この考えの前提には、作品とは作家と鑑賞者とが作品を通じコミュニケーションする手段であるという視点が必要である)。さて須田の場合は? 少なくともここからは外れている。これは見方を変えれば、鑑賞者を超越した(悪く言えば無視した)「一方的な主張」「言いっぱなし」という状況を作品は呈する事となる。よってここに絶対的嫌悪感を感じる者は「全否定」となろうし、片やそれを独自のスタイル、または新たなる表現の可能性と理解する者、つまり(誇張が許されるならば)現代美術の作家という捉え方が可能な者には「全肯定」という場合も生まれてくるのではないだろうか。

 少なくとも須田はその全生涯に渡り、自身のその瞬間瞬間の生き様に忠実に、そして思いきり手放しで画面に投影、定着してきた作家であった。その行動が意識的か無意識かは本人のみ知る処であろうが(いや意外と本人も判らないかも知れない)、それは結果として、その時代時代に臆面もなく順応していったという、他に類を見ない表現の変遷を形造る事になる(悪く言う者はこれを骨が無いと表すだろう)。正にポップ・アーティスト(?)の如くにだ。そしてこの行動を裏付けるように、遺された数多くの(彼独自の)執筆文から読み取れる禅を基本とした(これもまた独自の)思想。これらの背景を考え合わせると、私としては結論には至らないまでも、少なからず肯定側の人間に回りたい。

 まして世間一般において須田の名を知る者の多くが、やはり「街道をゆく」の挿絵画家であるという事実。ここに見えてくるものは、全うな本物の評価を受けられないというジレンマ、更に進化したコンプレックスなのではないか。しかしこの事は、彼の世界を怪しくまた複雑怪奇にしていくスパイス程度に楽しむべきものだと、私は考えている。


 では出品作品から今展の特徴を拾い上げてみたい。

 まず個々の作品評価で申せば、やはり抽象作品が私、個人的には最も好みである。画面からは、造形意識を全く純粋に楽しんでいる伸びやかさが感じられる。しかしその中でも、紫という色の佇まいから派生する要因かも知れないが、「無題」(cat.34)の持つ生々しさは、他とは一線を画す雰囲気を醸し出し特に興味が引かれる(尚、これは大島夫妻に敢えて出品をお願いした作品である事を付記しておく)。

 また注目すべきは、これまで公的の場では殆ど紹介されていない立体作品・オブジェ(cat.48〜50)の3点が上げられる。挿絵では全作品 254点が総て纏っている「日本人の記録 犬養木堂」より今回10点(cat.60〜69)をチョイスした。『自他共に認める下手』としていた「自画像」(cat.25)も今回敢えて出品。かつ、大島コレクションとしては作品以上に意味を持つ研究ノート類や手紙類も参考展示する。ちなみに、この資料の中には須田と大島間の手紙はない。前記した様にこれだけ将来を託された大島夫妻でありながら、所有物の中にも季節の挨拶以外、一通もないという。しかし答えは簡単! 大島夫妻がすぐに動く(直接訪問して用件を済ます)人間だったからだ(実際、今となっては当人達も悔やんでいる)。しかしながら、その何れもが大島個人コレクション展ならではの出品と言えるだろう。

 思い出の作品も多い。新境地を開く転機を与えられた長谷川三郎に誉められた記念碑的作品「虚無(太陽の子)」(cat.2)。これは須田より直接「君達(大島)が持っているように」と託された作品である。また「ジャンク」(cat.20)は、大島夫妻が最初に寄贈を受けた記念の作品の内の一点。抽象の「無題」(cat.38)は、抽象を理解しがたいものとして難解と感じていた静子夫人が、須田より「宇宙を感じないか?」と説明され、感動と共に初めて抽象表現を理解したものだという。書「伊古奈・御好焼・味絶妙」(cat.52)は無論、大島夫妻の経営するお好焼き屋『伊古奈』のために描いたものである。店舗の看板代わりとなる作品までも、平然と描いてしまう須田の多様性は正に驚きだ。

 

 


 前ページのインタビューでも述べているが、「コレクターか?」という問に対し、大島ヨウ氏は難色を示す。まして「託された者」というだけでも物足りないだろう。何かこの夫妻を定義できる言葉はないものだろうか? ましてや作家自身の定義さえも困難な須田剋太の事(あくまでも作家の定義が重要という意味ではない)。その全てを受け止めて、かつそれを正確に継承して行く者達の前途はなかなか大変なようだ。それでも、そういった人物の必要性は絶対に存在する。大島夫妻は少なくとも、その条件を最も満たしている人物に他ならない。これだけは揺るぎのない事実である。

                  (学芸課長)

 

 

 

 

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