| ドラマティック!版画集 岡 義明
『大川美術館らしからぬ』と申し上げても過言ではない、アメリカの現代(主に 1950年代以降)を扱った当館初めての企画展。出品作品を館蔵品より構成している本展であるが(チョット胸を張って申し上げるなら)、収蔵作品数・約4000点を誇る当大川コレクションの、その幅の広さを垣間見せる展覧とも言えるだろう。たぶん一般論として、大川美術館の印象を一言で申せば、やはり「日本の近代美術(洋画)」の美術館。そして、わが国の近代美術史の本流であるヨーロッパ美術に対してはさほど関与せず、敢えてアメリカの近代に目を向けている美術館、という処であろうか。既に何度も繰り返しているが、これは主軸画家の一人である野田英夫、または清水登之や国吉康雄、更にはベン・シャーンならびにジ・エイトらによるものである。本展は、その延長線上?と言うよりは、むしろ必然的に派生した、または枝分かれしたコレクションの一片が、本展の方向性と捉らえられなくもない。小規模ながら全てオリジナルで継続してきた企画展も、いよいよ第40回記念展となった。ここ辺りで今一度、当館の美術館活動のバックボーンを踏まえつつも、一味違った『大川美術館らしからぬ』無限の空間を生む事を大いに期待する、当『アメリカ現代版画展』としたいものである。
しかしながら大川美術館の基本姿勢は、あくまで「人間的な人脈により蒐集」である事に違いはない。この要素は少なからず出品作品にも含まれている事は、ここに明言出来よう。つまり、個々の人間的意図をもって制作された版画集を紹介する事でそのひとつの目的は達成される。
詳細は以下に記すが、エスタンプ(複製版画)とはいえ貴重な、ジョージア・オキーフの初期からの代表的素描をまとめた「ドローイング」。そして現代美術を代表するロイ・リキテンスタイン、ジャスパー・ジョーンズ、クレス・オルデンバーグなどが、1973年に集結し制作された「ポートフォリオ」。日本の現代美術の発展に多大なる貢献をし、去った、一人の画廊主の死に捧げられた「マルジナリア
− 志水楠男讃」などがそれである。
更に今回は、普段紹介する機会の少ない秘蔵の、そして最もアメリカ現代版画らしいと言える巨大な版画作品など、単体のものも合わせ紹介している。例えば作品サイズの巨大さ故、今回が初公開となったトム・ウエッセルマン(cat.46)。更にこの人抜きにアメリカ美術は語れないとされるスター、アンディー・ウォーホル(cat.41,43)などがそれである。
さて今日のアメリカ現代版画界といえば、押しも押されぬ『最大の版画王国』と呼ばれている。これに間違いはない。しかしここで、本題に入る前段階として、ひとつ考えておきたい事がある。私も先に、つい使ってしまった『アメリカ現代版画界』という認識に付いてである。はたして今日のアメリカ版画事情を総称して、いかにも日本的な『何々界』と呼んでよいものかという疑問だ。とかく日本人はこの言葉を好んで使いたがる。
そして『何々界』と括る段階で、キチンと組織だったもの、秩序だったものを連想してしまう(または逆に求めている)のである。現在わが国の版画界を構成する者達はわりとハッキリとしている(つまりある程度組織だっている)。その主たる者は、自他共に認める『版画家達』だ。彼らはその名の通り、版画を専門とする者達である。
彼らの存在自体、日本美術界(またここでも界を使ってしまったが)の特色?というか特殊事情と呼べなくもないが、他の国、少なくとも西洋美術の系譜に属する国であれば、表現技法を限定する作家がいること自体珍しい。彼ら『版画家(はんが・か)』を皮肉った『半画家(はん・がか、半分画家の意味)』という言葉さえある程だ。
つまり今回のテーマの範疇であるアメリカは言うに及ばす、基本的に西欧諸国に於いては、19世紀以前の印刷技術としての版画の存在は別にして、版画を専門とする版画家は基本的に至極少ない。作家が(または画家が)、ある時は油彩を、ある時は水彩や鉛筆を用いて表現するように、版画で表現する事は単に技法の使い分けに過ぎないと言う考えが一般的だ。
確かに版画の技法を使いこなすには、それなりの知識と修練は必要だ。職人気質の強い日本人が、版画家という看板を、プライドを持って掲げるのも分からなくもない。しかしそれが、他国とは少々異なる特殊な観念として踏まえておく必要性はありそうだ。つまりは同じ版画界とはいえ、私達の持つ認識とアメリカのそれは、事情が異なっているのだ、という事を申し上げたいのである。
さて本題であるアメリカ版画史を簡単におさらいしておこう。
19世紀中頃から世紀末にかけて、アメリカ版画は最初の頂点を迎える事となる。それは、当時新しいメディアであった写真と、古くからあるリトグラフが結合したフォト・リトグラフの技術的開発。そして新聞、雑誌などの飛躍的な普及。またカラーリトグラフによるポスターの流行などが時代的に連続した事で、版画の持つ技術としての機能が広く社会的なものとなった結果であった。またその反動は、芸術的な版画を制作する作家達をも自然と刺激する。
これに続き今世紀に入ると、版画への社会的興味は、1920年代の版画コレクションの波を形成。更に30〜40年代になると、リトグラフ及びシルクスクリーン(セリグラフ)の多色摺が技術的に可能となり、より多くの作家が版画を試みるようになる。当館でお馴染みのベン・シャーン、レジナルド・マーシュ、ラファエル・ソイヤーなどが活躍したのがこの時期である。
こういった過程を経て十分に素地の整った40年前後のアメリカ版画の土壌に対し、その発展に強力な弾みを付ける出来事が起こった。第2次世界大戦の始まりと共に、パリそしてロンドンを経由して渡米したスタンリー・ウィリアム・ヘイターが開いた、ニューヨークの『アトリエ17』(再建)である。ヘイターのそれから10年の活動は、測り知れない影響をアメリカ版画に及ぼした。
そしてほぼ同じ頃、戦火を避けヨーロッパから渡米したエルンスト、ミロ、シャガール、マッソン、タンギーなどの名だたる巨匠たちが、ヘイターのアトリエで版画を制作した事も更に拍車をかける結果を生む。当時のアメリカでは、版画が社会的条件を満たしてはいても、芸術表現としては未だ完全に確立されるには至っていなかった。しかしヘイターを中心としたヨーロッパからの決定的な影響は、その後の60年代、アメリカ版画を未曾有の隆盛を迎えさせる重要な契期となったのであった。
アメリカでは版画工房の事を『ワークショップ』と呼ぶ。上記した隆盛の時代を迎えるに当り、その跳躍台となったのはふたつのワークショップであった。 1957年に開設されたユニヴァーサル・リミテッド・アート・エディションズ(略してULAE)と、1960年のタマリンド・リトグラフィ・ワーク・ショップである。後にこの二つの工房は全米で1,2の工房として活躍する事になるのだが、特にULAEは、若いアーティストの作品を多数手掛け、アメリカ版画界の興隆に大きく貢献する。
片やタマリンドは作家に対し技術と設備を提供すると共に、またすぐれたプリンター(摺師)を養成する役目も果たすのだった。時間と費用の制限、また技術の公開という面でもオープンであったこの2つの工房の出現によって、アメリカで版画に興味を持つ作家は、わざわざパリまで赴く必要がなくなった。
そして時代は、60年代の代名詞とも呼べるポップアートを出現させていく。彼らの多くはシルクスクリーンを用いたが、この事は逆に他版種を刺激するという相乗効果をも産んだ。そして多くの工房がこれ以降次々と生まれ、アメリカ版画界はその頂点へと着実に進んで行くのであった。
出品作品より版画集について記す。
先ずはジョージア・オキーフの「ドローイング」について。
これは 1968年、ニューヨークのアトランティク・エディションズで
250部発刊されたものであり、当館所蔵作品はその 170番にあたる。オリジナルのドローイングを元に制作されたこのエスタンプは、オキーフ自身の管理により摺られたものである。
そしてこの全10点の内、特に1915〜17年に制作された最初の7点(cat.1〜7)は、オキーフが作家としての基礎を固める、それ以前のものである。それらは『アメリカにおける抽象表現の草分けの最も注目すべきもののひとつ』と評されている。
・・色と形で表現できると私は気づきました。その他ど んな方法でも表現することはできませんでした。その ための言葉は持っていませんでした。
( INTRODUCTIONより)
とは後のオキーフの言葉である。彼女の表現の主要な源泉は、テキサスの地、彼女の言う『すばらしい空虚』を構成する自然の中にあった。
それらは例えば、太陽や空や植物などの生命力、また石や貝殻などの無生物などである。そしてその具象的な自然の造形の豊かさを基礎に、抽象化という方法で昇華させて行く彼女の作品は、更に抽象としての制約をもなくすことで発展していったという。つまり抽象でも具象でもない世界観の発見が、オキーフのオキーフたる由縁となったのである。
この版画集は、社会的にも高い評価を受けた以降に制作されている。ここには、彼女の芸術が、その初めの段階から彼女は変わらずに彼女であった事、そして初期の作品で既に多くの後年の作品のエッセンスを含んでいた事を、今日の私たちに伝えてくれている。
「マルジナリア − 志水楠男讃」( Marginalia《Hommage to Shimizu》)は、参加した5人の作家の版画、そして大岡信の詩、ならびに美術史家・東野芳明の後記からなっている。発行は1981年3月、MARGINALIA刊行会。限定 100部の内、当館所蔵作品はその59番目に当たる。
そしてこの版画集が刊行されてから4年後の1985年3月には、「志水楠男と南画廊」という全
252ページからなる本が出版されている。内容は画廊の全活動記録と多くの関係者の思い出が綴られたもので、刊行会は上記とほぼ同じメンバーの構成である。
一人の人間の死に対し、これだけの一流作家を集結させ、またこれだけの反応を残す者はそう多くはない。
志水楠男(1926〜1979)という一人の画商。彼は1950年に山本孝と共に東京画廊を設立、そして6年後に独立し南画廊を設立した。ここで彼は海外の作家の紹介、またわが国の新人作家の発掘に死力し、二十数年の間に百数十回の展覧会を開催し、東京画廊と並んで戦後の前衛美術界の礎を築いたのだった。しかし52歳、志半ばにして志水は逝ってしまった。
この版画集は、葬式に参列するためにサンタ・モニカから飛来したサム・フランシスの呼び掛けで始まった。現代における巨匠の域にある彼らの集結、そして自発的な行為を促したものは何だったのか? 『志水の中に、単なるビジネス・ライクな画商をこえた、ひとりの情熱的な誠実な男を感じとっていたこと』と言われている。
「マルセル・デュシャン語録」の発行は 1968年、東京ローズ・セラヴィである。部数は全
560部で、その内の60部にオリジナル作品5点が一緒に納められている。またその内の10部は非売、他の50部が市売品である。
当館の収蔵品は50部中の50番に当たる。尚、本展では展覧会名の範疇より、荒川修作の「静物」、ならびに瀧口修造・署名入りの「デュシャンのプロフィルの複製」を除いた3点が出品となっている。
この版画集と言うのか?、『本の形をしたオブジェ』を創った瀧口修造(1903〜1979)の多岐に渡る活動は、とても一口では言い表わせない。事典によると『詩人、批評家、前衛実験家』となっているが、なかなかこれだけでも物足りない。
詳細は他に回すとして、そんな彼が、『オブジェの店をひらくという想像』、つまり架空の店の観念計画に取りつかれ、そこから発展してきたものが、この「マルセル・デュシャン語録」であると言う。
発行としているローズ・セラヴィとは、瀧口が架空の店の名として命名を依頼したデュシャン自身の決定によるものであり、デュシャンが若い頃に用いた偽名から取ったものである。またこの取扱所(販売)は上記した南画廊であった。尚、発行日は7月28日となっているが、これはデュシャンの誕生日を記念したものであるという。
しかし実際に完成したのは11月の事であり、またデュシャン自身が亡くなったのは同年10月である。瀧口とデュシャンが直接面識を持ったのは1958年。それから10年かかって完成した「マルセル・デュシャン語録」。『言葉の塊がオブジェのようにちりばめられた』この本を、デュシャン本人は見ることはなかったという。
最後に一言申し上げたい。版画集とは単なる版画の集合体ではなく、それぞれに思いの込められた、それぞれの人間ドラマの結晶なのである、という事を…。 (学芸課長)
■写真キャプション
ジョージア・オキーフ 1960年代後半
志水楠男 1977
マルセル・デュシャン 1924年
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