財団法人 大川美術館     OKAWA MUSEUM of ART, KIRYU

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蘇る、蘇らせる軌跡

岡 義明

 この世に絵描き(えかき)とは、いったい何人いることだろう。日本近代絵画史というひとつの明快に(本当に明快?)形作られた系譜の中で考えると、まあ何となく「近代の巨匠 100選」など、ぼんやりと浮かんできたりする。

しかし世の歴史がそうであるように、また美術史においても表舞台に立った者達だけが絵描きであろうはずがない。その裏側には多くの秀作を遺しながらも、いわば出世するチャンスに恵まれず、そして世に認められることなく人生を終えた多くの絵描き達が存在する。

…中には俗っぽいこと(つまり出世)を拒み、孤高の画家を自ら選択する者もあるが…。その何れにしてもこの者達は時代と共に、そしてそれを受け継ぐ世代の交替と共に、物理的にも精神的にも風化し時代から消え去ってゆく。

ただし偶然という範疇で、ごく限られた者は没後になってから何らかの注目される機会を持ち、世に再浮上する事もあろうが、それは至極まれなケースと考えるべきであろう。

今回ご紹介する異色の日本画家・荒尾昌朔(アラオ・ショウサク 1906〜64)もまた、そういった一人になっていたかも知れない。様々な条件が重なり、没後35年を経て初の回顧展がここに開催されたわけであるが、この事を手放しで「彼は恵まれていた」と言ってよいのだろうか? あくまで美術館は、任意ではあるにせよ、画家の発掘そして再考のチャンスを提供する機能であると思う。

結局その作品の評価は、時の流れと共に時代と社会が選択してゆく結果ではなかろうか。それこそが「作品の社会的自立性」を踏まえた上での「真の作品評価」であると私は考えている。

荒尾昌朔は1930年(昭和5)東京美術学校・日本画科(現在の東京芸術大学、以下は美校と表記)を卒業した。卒業時に川端奨学資金賞を受賞し総代を務めた彼は、エリートコースの第一歩を歩み始めた事に違いはない。

しかし時代が時代。昌朔の地元では、東大、一橋以外は大学ではないと考えられていたと言うし、まして美校などはヤクザな学校と…。彼は一橋と偽って通い、また少年時代の友人に学資を融通してもらっての卒業だったという。

生前の昌朔の追想によると卒業式の時、名物校長と呼ばれた正木直彦が「美校で学んだ事は全て捨ててしまえ。金持ちの息子は別にして、何かの仕事につくように」というような言葉を卒業生に送ったという。昌朔もその通り、卒業してすぐにアルバイト生活に入り、またその後、関西に移ってからは美術の教員を生業とした。

しかし絵を止めなかったのは言うまでもない。中学の頃、地元・石川の砂浜で最初の個展を開いたという話があるくらいだから、根っから絵は好きであったのだろう。詳細は不明だが、卒業後は美校の恩師であり、また大きな影響を与えたとされる結城素明(1875〜1957)との関係を基盤に発表活動を続けたようだ。

この当時の彼の作風はと言うと、現在も母校に残されている作品(P.6 図版参照)や初期の当展出品作品を見ても、実にオーソドックスで装飾的、正に正統的日本画と見受けられる。エリートがエリートのコースに乗っていく、当然そのように見えた、が、しかし。ちなみに昌朔の追想によると、美校の同期で絵を描き続けた者は「私とあと一人だけだった」という。

この後58歳まで続く昌朔の画業は、正に時代の流れと共にあったと言えよう。つまり美校卒業から40歳代前半までの正統的な表現の時代。そして1950年(昭和25)前後を境とした以降、めまぐるしく変化し続ける表現の時代である。彼は海外より押し寄せる新しい美術潮流の中で絶え間なく探求し続けたのだ。

ところで日本の近代絵画を乱暴に言うと「日本画」と「洋画」とに二分出来る。同じ日本人の描く技法別による(また肩書きの差による)分類とは言え、それぞれはそれぞれに、明確な発展を遂げて来たとされている。

このいわば仕分けは、明治期、ヨーロッパからの洋画の導入による差別化からはじまったという風に捉えられるが、何れにしても「日本人の絵」を完成させることにもがいてきた、それぞれの歴史であったのだ。そして戦争の時代、こと日本画は画一的な愛国心からの思想統制により、洋画以上に「創造活動の暗やみ」の時を過ごす。

そして戦後、国際化民主化の波の中では、洋画同様に新たなるステップを迎えるのであった。この当時「花鳥風月を記号のように組み替えるだけの日本画は過去のもの」と昌朔が思ったかは知らないが、彼も勢い良く変化を遂げてゆく。いよいよ注目したい昌朔・芸術の始まりである。

戦後の復興期、新たなる日本画界の流れはすぐに起こった。1948年(昭和23)の創造美術の結成、続く3年後の新制作協会・日本画部としての合流がある。この活動を全体としてみれば、画風は日本画特有の装飾様式と西洋モダニズムとを結合させた傾向となる。つまりキュービズムまたフォーヴィスムなどが表面的には感じられ、かつ日本画という伝統を基盤にしていたのである。ここに歩みを共にした昌朔。彼もまたフォーヴィスム的影響、そして徐々にキュービズム的段階を経て、更に純粋抽象へと変化していくのであった。

めまぐるしい昌朔の変貌。しかし遺された現作品、そしてその作品名からも強く感じられるように、常に彼の表現の根底にはポエティカルな感性が流れ続けていたという事を、ここにひとつ留めておきたい。

昌朔はフェルナン・レジェが好きだったという。またパブロ・ピカソに至っては尊敬というよりも憧れを抱いていたという。なるほど彼のキュービズム的影響は充分に納得出来る。またサム・フランシスや、渡欧前の菅井汲の仕事はかっていたそうだ。1960年代の作品を見ると分かるような気がする…なかなか面白い。逆に、日本画で抽象を描いていた堂本印象などは、彼と同じような立場にあると思うのだが否定していたらしい。

このように様々な影響そして模索を続けていった昌朔であるが、実はたやすく時代の波にのったという訳でもないらしい。彼にも挫折寸前に悩んだ時期があった。正確にいつの事かは定かではないが「よう、描けない」と言い、油彩画家である妻・武子に「ぼくは絵を止めるから君が描け」と言った事もあったそうだ。抽象でなければ絵ではないと言われた時代。

彼も具象から抽象へと移っていく強い必然性にかられていたのであろう。しかしそれまでの実績、そして本人が意識するとしないとに関わらず確かに引かれたエリート日本画家のレール。このスランプはつまり、自分自身でかけてしまったブレーキであったのだと思う。しかし1週間の葛藤の後、画業は再開される。そして彼は納得のいく明確な抽象表現を探し続けるのであった。

その後の昌朔は、新たに結成された新美術協会(1955年、第2回展から)や新興美術院(1959年、第9回展から)などを発表の場としていく。作風は具体的図像(鳥や馬など)を記号的に構成し、具象および抽象感覚を共存させたより独自性の高いものとなる。

また一時期、画面は数ミリにも達する厚みとなった。この当時、昌朔の暮らす関西の美術状況はというと、具体美術の嵐が吹き荒れていた。松谷氏の論文(P.4 参照)にもあるように、彼が直接このメンバーになる事はなかったが、多いに関心は持っていたようだ。

そして昌朔は亡くなる3年程前の1961年頃(実質的に晩年)から、62層日本画展にも参加する事になる。この会は「新興(美術院)内、前衛派でグループを結成し、グループ展も催したいと計画」(参加を促す昌朔宛手紙文のママ)を出発点とするものであった。

結成時のメンバーは5人。年齢層は20歳代からと幅広く、当時50歳半ばになっていた昌朔は年令的には上になる。この頃昌朔は新美術協会をやめて、62層にかけようとしていたという。しかし新美術協会の幹部に強く引き止められ、結局全てが同時進行となる。この辺りにも彼の人間性が垣間見られよう。

昌朔の人間性という点では、突如感情を表に出すという性格も伝え聞いている。そして時には手が出てしまう事も…。また画家仲間と激論し、徹底的に相手をやり込めてしまう譲らない面もあったそうだ。海の男であった父親ゆずりということであろうか。家系的なものであると、同じ性格を引き継ぐ息子・純氏も認めている。しかし晩年になってからは、その爆発する感情を自ら抑えるようになったそうだ。

純は高校時代までとても厳しく躾られたそうだが、大学に入った時を境に大人として一切小言は言われなくなったという。62層に参加した頃から描かれた詩的でファンタジーさえ感じさせる清潔な抽象表現とも、何となくオーバーラップして見えてくる。

昌朔の生業は小学校の図画教員であった。教育熱心であったのだろう、視聴覚教材として新案した「SJ式プリンター」なるものの図面も遺されている。彼の教員生活は延べ20年にも及んだが、そこでの昌朔の人望は、彼の葬儀に際し子供達から送られた悲しみの文面からも充分に想像する事が出来る。

昌朔の死は突然に訪れた(P.7 参照)。

翌年3月には退職を予定しており、仕事からは逃れられ、絵に集中して、画商もついてくれる目処も立ち、しかし生活もしていかなければならない、と…多分そんな諸々の事をボンヤリと考えていて…彼は電車に跳ねられてしまったのではないか、と純は語る。

売る(生活)ための具象的な仕事もして、かつ最先端の抽象いわゆるアンフォルメルも追い掛けた昌朔。もう少しで「正に荒尾昌朔でしか出来ない仕事」をやってのけたであろう、という、その時、ふいに訪れた画業の中断であった。あと2、3年あったなら、完全なる独自の境地が完成しただろうというのは、勝手というものか。

今展では荒尾昌朔の全貌を紹介している。彼の評価は正に「この瞬間から始まったばかり」と言えるだろう。               (学芸課長)

 

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