財団法人 大川美術館     OKAWA MUSEUM of ART, KIRYU

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 清水 登之  1887〜1945 SHIMIZU,Toshi

清水の画業を語る時、戦争との関係は無視出来ない。と言うより、むしろ戦争は彼の人生に多大な作用を施した。元来、少年時代から軍人志望だった清水。しかし19歳での士官学校受験の失敗は、その後アメリカでの絵画修業へと彼を向かわせる。そして20年近く続いた滞米生活は、排日運動の人種差別とも合わせ、また経済的にも決して楽なものではなかった。ここで心の支えになったのが家族の存在であった。

特に苦労の中で生れた長男・育夫は、帰国後、父親の夢であった軍人になってもくれ、誇るべき息子だった事だろう。しかしその最愛なる者は、戦時下の昭和19年、南方の海で戦艦もろとも海の藻屑と消えてしまう。そして父は戦死の報が入った直後より、息子を中心とした家族の記録を文章にまとめ始める。

更に油彩による息子の遺影(cat. no.10(10))も描くのだが、報せからわずか半年後、極度の心労から誘発された白血病のため自らの死を迎えるのであった。息子の遺影の裏面に同じく父の手で記された青年の履歴は、正に父自身の位牌でもあったのだ。

 そして清水の画業の後半生には、事実、多くの戦争画制作がなされた。昭和2年の帰国、それから早くも5年後、彼は戦地へと赴き戦争をテーマとした作品を描き始めている。画壇全体が本格的に戦争画に取り組むようになったのは、一般に日中戦争勃発の昭和13年頃とされているから、彼のそれは極めて早いスタートと言える。そして昭和19年までの13年間に、全てが正式な従軍ではないにせよ、その数は8回、また、ざっと計算しただけでも戦地で過ごした時間は延べ約40ヵ月にもなった。

昭和8年というスタート時が未だ軍の強い支配下にはなかったせいか、当初の作品には、いわゆるあの戦争画特有の匂いは殆ど感じられない。つまり基本的には、アメリカで獲得した清水らしい表現の範疇にあり、単にそのモチーフが兵士や戦地に換置しただけというふうに見える。

しかしそれも、急速に制作数の増加した昭和13年頃になると、作品テーマが戦争である事を主体的に感じさせる画面へと変化していく。ただし表現としては、新たな可能性さえ示唆する実験的な手法もまた同時に試みられてもいる。

それが更に昭和17年以降になると、描写はアカデミックな意味における明快な写実となり、はっきりとした戦争画が描かれ始める。そしてその色彩は、戦争画独特の匂いを醸し出すかのように褐色系となり、また他の画家たちと同様に、画面造りも報道写真の絵柄をほぼそっくり流用した作品などがみられ、時局に合わせた戦争画としての性格を更に強めていくのであった。

 結果的に、清水の戦争画の積極的制作は、後の評価に少なからずマイナス要因となっていった。しかし彼がなぜこれほど戦争画に関わったかという理由については、未だ結論をみていない。しかも終戦直後に亡くなった彼には、自身の戦争への態度を明確にする時間さえ与えられていなかった。

であっても基本的に考えられる事は、少年時代からの夢の延長線上にある抵抗のない軍隊に対する認識。そして経済的理由による軍人との接触。またこの時代の一般的と言える画家としての社会に対する態度。

更に外務省に勤務していた弟・董三の存在。などが上げられる。ただ遺された作品自体を観た時、いわゆる記録画としてイラスト的表現に陥った他の悪しき作例との比較においても、それが油彩の完成作品にせよ、水彩による人物や風景スケッチでも、あくまで制作の喜びを失わない画家本来の姿勢は存分に窺える。これはひとつの救いであるのかも知れない。

 そして画家の姿勢という意味においても、他の従軍画家たちの多くが自ら、戦時下での足跡を焼却するなどで隠蔽するのに必死となっていた時、清水はその全てを遺したのだ。これは彼らしい画家としての自信、そして誇りを示しているのだろう。

【略年譜】

1887(明治20)年 栃木県に生まれる。
1905(明治38)年 軍人になる決心をし、東京の成城学校に転校する。
1906(明治39)年 成城学校を卒業。陸軍士官学校を受験するが失敗。翌年、絵画修業のために渡米。肉体労働で資金を稼ぐ。
1912(明治45)年 シアトルでオランダ人画家タダマ・フォッコの画塾に入る。
1917(大正6)年 フォッコ画塾をやめ、ニューヨークへ。アート・スチューデンツ・リーグに学ぶ。翌年、夜間部に移りジョン・スローンのクラスに入る。
1920(大正9)年 日本で古澤澄子と結婚式をあげ再渡米。1921(大正10)年 長男・育夫、生まれる。アメリカ絵画彫刻展に《横浜夜景》を招待出品、評判となる。
1924(大正13)年 ニューヨークを出帆、フランスへ向う。パリで制作開始。翌年に3カ月余りスペインに滞在する。
1927(昭和2)年 イタリア経由で帰国。第14回二科展に一連の滞欧作が入選。
1930(昭和5)年 第17回二科展で二科賞受賞。14名の同志と独立美術協会を創立。
1932(昭和7)年 従軍画家として上海事変を描くため、蘇州などの戦跡を巡る。
1937(昭和12)年 海軍従軍画家として上海戦線に赴く。
938(昭和13)年 海軍従軍画家として漢口に赴く。
1942(昭和17)年 彩管報国隊として南方に向う。タイ、ボルネオなどを巡り、多くの水彩スケッチを描く。
1943(昭和18)年 陸軍の要請で南京、上海へ向う。
1944(昭和19)年 南京、上海に滞在して制作。
1945(昭和20)年 戦艦乗組員として出征していた長男・育夫の戦死の報を受ける。疎開先の生家で極度の精神疲労による白血病のため死去。享年58歳。

        (岡)

丸木 位里  1901〜1995 MARUKI,Iri

 丸木 俊   1912〜   MARUKI,Toshi

《原爆の図》の画家と呼ばれる“丸木夫妻”。彼らを語る時、決して外す事の出来ない《原爆の図》の存在。しかしこの作品が、丸木夫妻によって、あくまで画家として成された仕事の内の、その代表作として取り上げられるのであれば問題はない、のだが…。

 昭和20年8月6日、広島は原子爆弾による世界で最初の悲劇に見舞われた。人類が初めて体験した惨劇、その言語に絶する凄まじさは、ぜひ他の良書を参照されたい。その舞台となった広島は画家・丸木位里の故郷であった。彼は妻・俊と共に原爆投下から数日の内に故郷に辿り着く。

街は廃墟と化し、自宅は崩壊、そして父親をはじめ家族、親類、友人ら多くの命は奪われていた。それを目の当たりにした画家夫妻の実体験が、後の作品を生み出す動機となった。彼らはその翌々年あたりから夥しい数の人体デッサンを始める。それは夫婦が互いにモデルとなり行なわれ、その数は二千余にものぼった。

これを経て、ついに昭和25年に《原爆の図 第一部「幽霊」》は完成、そして発表されたのだ。この大作は丸木夫妻の合作であった。しかし夫婦とはいえ2人の画家、2つの個性である。こういった制作形態は近代以降あまり例を見るものではないが、何れにしても制作は更に継続していった。

スタートからの5年間で10部までが集中的に制作、またそれ以降も15部まで完成、そしてテーマは更に国家や権力による虐殺へと繋がっていくのだった。この《原爆の図》は発表当時からすぐに、国内各地は元より遠く海外数十ケ国にて展覧会が開催された。その反響の大きさは広く知られるところである。

 《原爆の図》はその社会的な側面からも、簡単にその全容を語り尽くせるものではない。よってここでは断片的な指摘までとする事をお断わりしておく。

 先ず「《原爆の図》の画家と呼ばれる丸木夫妻」についてである。これは「《原爆の図》だけを以て丸木夫妻を語れる」誤解という意味である。日本画家の位里、洋画家の俊。彼らは無論《原爆の図》だけを描いてきた訳ではない。また《原爆の図》を描くためだけに絵の道を歩んできた訳でもない。

当然《原爆の図》に至る以前にそれぞれの画業はあり、それを踏まえ、ある時期に(それも相当永く)共同で絵を描いた。それが《原爆の図》であり、それが彼らの代表作となったのだという事である。つまり、先ずは彼らを“一人の画家”という視点で捉え、彼らによって創られた《原爆の図》と考えねばならない。

そうしないと更に彼らが“表現者としての画家”であるという視点までも見失ってしまうからである。つまり戦争を告発するという目的のために絵画という手段を選んだ、正に“絵も描ける思想家”などという曲解さえも可能としてしまうのである。

彼らは思想はあるも、やはり画家である。この事を更に確認し裏付けるにはどうするか? それは…画家が行なう行為の集約として、また逃れようのない結果としての作品、この現実に触れてみる事が適当であろう。

 一般に原爆をテーマとした作品は、その事実を象徴的に示す“きのこ雲”や原爆ドーム、または燃える建物や廃墟などを描いたものが多い。その方が作品のテーマ性を明確にしやすいからだ。

しかし丸木夫妻はそうはせず、基本的に人間だけを凝視する事に努め、画中では連なる裸体、追い重なる裸体をもって物事を語らんとした。つまり、あの時に起こった状況の説明などは殆どしていない。この事からも《原爆の図》は原爆の事実を記録した原爆記録画でない事が分かる筈だ。

しかし作品の発表された当時が、未だ戦争の記憶も生々しい時代であったという事だろうか、観客の関心は実際別の方向を向いていった。例えば各地の巡回展の時、観客から投げ掛けられた「なぜ、こう裸体を描くのか」「これは大袈裟ではないか」という質問。

また広島や長崎の観客からは、逆に「この作品では被爆の現実が描ききれていない」として、自らの背中に残る凄まじいまでのケロイドを曝した者もいたという。このどちらもが《原爆の図》を作品として捉えてはいない。

つまり《原爆の図》は世に出た最初の段階で、本来は結果として発生すべき反戦的メッセージ性が、あたかも作品の骨格の如くに強調視され、まして絵画として表現された作品であるという事実などは考慮されるに至らなかったのである。極言するなら丸木は画家として扱われてはいなかった。

確かに画家は作品を通じ観客の反応・反響を、ある程度は仕掛け、ある程度期待したりする。しかし自ら「この絵はこう見るんだ」という答えを出す、などという、野暮な事は元々する筈がないのに。

 尚、今回の出品作品は、前記した《原爆の図》の下地として描かれた人体デッサンである。なぜ《原爆の図》そのものではないのか? 良否は何れにしても《原爆の図》の社会的認知はすでに成されている。それも相当強烈に。これを前提にし、今展の目的である絵画としての認識を促そうとした場合、デッサンの提示の方が効果的だろうと考えた為である。つまり“ひとつの絵画作品”として鑑賞者はより接近しやすいのではないかと考えたのである。

【略年譜[位里・俊]】

1901(明治34)年 [位里]広島県に生まれる。独学で絵を学ぶ。
1912(明治45)年 [俊]赤松俊として北海道に生まれる。
1923(大正12)年 [位里]上京。当初は日本南画院や青龍社展に出品。
1929(昭和4)年 [俊]上京し女子美術専門学校にて4年間洋画を学ぶ。卒業後、小学校の代用教員となる。
1938(昭和13)年 [位里]歴程美術協会を結成し日本画の抽象化を進める。また同郷の靉光と親交する。
1939(昭和14)年 [位里]美術文化協会に参加。
1940(昭和15)年 [俊]ミクロネシア群島に半年間滞在。
1941(昭和16)年 [位里・俊]結婚。
1947(昭和22)年 [俊]女流画家協会に参加。
1949(昭和24)年 [位里]前衛美術会を退会、以降は無所属。
1945(昭和20)年 [位里・俊]原爆投下直後の広島に入り約1ケ月滞在。
1947(昭和22)年 [位里・俊]《原爆の図》のためのデッサンを始める。
1950(昭和25)年 [位里・俊]共同制作した《八月六日(原爆の図 第1部 幽霊)》を第3回日本アンデパンダン展に出品。
1955(昭和30)年 [位里・俊]これまでに《原爆の図》を第10部まで完成させ各種の展覧会で発表。また1954年から《原爆の図》世界巡回展を開催し各地で反響を呼ぶ。
1967(昭和42)年 [位里・俊]埼玉県東松山市に「原爆の図丸木美術館」開館。
1982(昭和57)年 [位里・俊]これまでに《原爆の図》を第15部まで完成させる。また並行して《南京大虐殺の図》や《アウシュビッツの図》《水俣の図》など社会性の強い作品の共同制作を続けた。
1995(昭和7)年 [位里]東松山の自宅で死去。享年94歳

        (岡)

 

 松本 竣介  1912〜1948 MATSUMOTO,Shunsuke

昭和10年の二科会初入選が実質的なデビュー、そして昭和23年には36歳の若さで没。竣介の活動期間はほぼ昭和10年代とイコールになる。よって彼の画業は、その殆どが戦争という時代の支配下にあった、という点を大前提に考えなければならない。

 かつて竣介には“反戦・抵抗・民主の画家”などのレッテルが張られていた。その一番の論拠となったのが雑誌『みずゑ』昭和16年4月号に発表された『生きてゐる画家』という一文である。これは同年1月号に掲載された軍人と御用批評家による座談会記事『国防国家と美術』、そこで展開された軍人の暴論を受けて発言されたものであり、彼が考える画家の社会に対する基本的態度を示したものだった。

無論、時局を考慮し、慎重に言葉を選んでの発言内容ではあった。しかしその文中に、軍部に対し異義を唱えたと解釈出来る部分が、見方によってはなくもない。その正否は何れにしても、この当時の時代性を考えると、まず個人の考えを申し述べたこと自体、確かに大した勇気だと思う。ともかくその行動を以てして、彼にはレッテルが張られた。そしてこれだけではなかった。

ここに追従するように描かれた《立てる像》(昭和17年)。この作品は“時代に対し明確な抵抗の姿勢として、大地を踏みしめ立つ”という曲解において、レッテルを明確にさせる理屈の種となった。更には、戦時下の厳しい状況に屈する事なく、ぎりぎり昭和19年9月まで開催された新人画会の展覧会活動。また戦後の『全日本美術家に諮る』(美術家組合結成の呼びかけ文)も『生きてゐる画家』と連結され、彼の貫かれた思想を示す説明材料として、打って付であった。

理屈は次々と証拠を集め、画家像は後の者達により創られていった。それは画壇全体が時局に迎合していく戦時下において、正に正義を信じるスターの創造であった。そしてもう一方ではこのレッテルを否定する作業も、また得意気に行なわれていた。

《航空兵群》(昭和16年)などの戦意高揚画が制作された事の発見。また終戦直後に家族に宛た手紙に書かれた次の文もなかなかインパクトを与えた。「ニッポン ワ アメリカ ニ マケタ カンボー シッカリシテ 大キク ナッテ アメリカ ニ カッテクレ」

 肯定派か、否定派か? 彼の定義付けは、まるで宮本三郎の戦争画《山下・パーシバル両司令官会見図》(昭和17年)のように、イエスか、ノーか、と両極に揺れた。しかしここに私は不満を感じる。この手の議論には“竣介が画家である”という視点の欠落が感じられるからだ。当たり前に聞こえるかもしれないが、竣介は“絵を通じ表現する画家”であったのだ。

竣介自身も言っているではないか、「更に画家とは限らない芸術家としての表現行為は、その作者の腹の底まで染みこんだ、肉体化されたもののみに限り、それ以外は表現不可能といふ厳然とした事実を度外視することは出来ないのである。」(昭和16年 生きてゐる画家)と。本文でプロレタリア美術運動や社会主義リアリズムの芸術的挫折を語る余裕はないが、思想性が芸術性を上回って描かれた“絵”は、決して“表現”としての“作品”の成立をみる事はない、と思う。

この考えは、例えば戦争記録画をまっとうな美術の表現活動として議論を試みる愚かさに等しい、という、私のもうひとつの不満とも重なる(私は一部の例外を除き殆どにおいて戦争記録画を絵であっても作品ではないと考えている)。ここで竣介に振り返れば、無論絵は作品となり、表現としての成立を十分に満たしている事は分かる。先ずはここから話が始まるべきだろう。

 また文章によって行なわれた意思表示について…。聴覚を失っていた彼は発声による主張が困難であり、その代わりとして文章表現にウエートを置くようになったのは、ごく自然と考えられ、この点はより考慮されるべきだと思う。また事実、彼は若い頃からそうしてきた。

そして改めて文章の内容も時代に照らし合わせ、更に座談会記事での無知な暴言を前提として読んでみれば、彼が画家としても人間としても、筋の通ったまっとうな感覚であった事は分かってくる。彼は“筆も立つ画家”として、そしてまともな表現者として、時代に反応し彼なりに表現したのだ。まっとうな事がまっとうでなかった時代においてである。

 我々もまっとうな目で彼の作品を見てみたい。戦時下の昭和16年以降の特徴として先ずあげられるのは、彼自身の立場が反映された孤独感ではなかろうか。失聴していた彼は兵役免除であった。しかし共に活動していた靉光(1907〜1946)ら友人たちは、召集そして戦死した。その心理に生まれてくるのは“あくまで個人としての孤独感”。それはポツンとした影のような点景人物として表された。

そして点景人物を取り巻く街並は、かつて彼が描いていた“人が人として暮らす街”ではなく、正にゴーストタウンと化していた。この頃の作品として《運河(汐留近く)》(cat.no. 27)が出品される。

これには点景人物は登場しないが、「人間性の喪失」という言葉がそのまま当てはめられる。しかしこれは彼の思想発言ではない。まともな教養を身につけた彼が、まっとうな価値観をもって表現したもの、その結果が社会性としてのレベルにまで昇華出来ていたのだ、と考えられる。もっとよく彼の絵を観て欲しいものだ。

 

【略年譜】

1912(明治45)年 佐藤俊介として東京に生まれる。
1914(大正3)年 父の事業のため、岩手県花巻市に移住。後、盛岡市に移る。
1925(大正14)年 岩手県立盛岡中学校に入学。その直後流行性脳脊髄膜炎にかかり聴覚を失う。1929(昭和4)年 中学3年終了後、画家への志望深まり上京、太平洋画会研究所に入る。在学中、仲間と同人誌『線』を刊行し、また茶房『りりおむ』でグループ展、個展を開く。
1932(昭和7)年 兵役免除を受ける。
1935(昭和10)年 二科展初入選。以後二科展解散の1943年まで毎回出品。NOVA展に出品、同人となる。
936(昭和11)年 結婚して松本姓となる。アトリエを綜合工房と名づけ、妻・禎子と共に、デッサンとエッセエの月刊誌『雑記帳』を創刊(翌年廃刊)。
1938(昭和13)年 二科展に《街》を出品、都会風景シリーズ始まる。
1940(昭和15)年 二科特待賞を受ける。九室会会員となる。東京日動画廊で最初の個展開催。
1941(昭和16)年 雑誌『みずゑ』1月号の戦争協力を説く座談会記事に反論し、4月号に「生きてゐる画家」を発表。
1943(昭和18)年 仲間と新人画会を結成、翌年までに3回展を開く。
1945(昭和20)年 家族を疎開させ、東京のアトリエに残って終戦を迎える。
1946(昭和21)年 「全日本美術家に諮る」と題する美術家組合結成提唱の一文を画家を中心に各方面に発送する。
1947(昭和22)年 画壇再建の動き激しく、新人画会の同人たちと自由美術家協会に参加。
1948(昭和23)年 持病の気管支喘息のため自宅で死去。享年36歳。

        (岡)

 

オノサト・トシノブ 1912〜1986 ONOSATO,Toshinobu

円を描き続けた抽象画家と、一口に呼んでいいオノサト。ところで彼が戦争をテーマとした企画に登場する事に、抵抗感を覚える方も多いかも知れない。今展の他作家と比べても、彼の表現が戦争体験の絶対的支配下にあったとは言えない。しかし制作上の重要な時期、つまり彼を代表する円の出現するちょうどその直前、少なくとも戦争という事実は彼の意識に作用している。つまり今展でのオノサト出品は、“あえて”と申し上げておきたい。

 現在のオノサト作品の実質的評価は、戦後、つまり円の出現以降となっている。最初がベタ丸と呼ぶ明快な単独円、やがて複数円、続いてタテヨコの直線に分断される分割円となる。更に曲線も加わり形態は複雑化し、やがて…。極端ではあるが、実に整理された形で制作変遷の説明は可能である。というのもオノサトの制作とは叙情や感情を極力排除した、いわば手法というより方法論、つまりシステムとして作品を生産していたようなものであったからだ。

 円の仕事が始まるまで(戦前の試作的円は除く)、またはそのシステム確立に至るまで、つまり戦前に、彼は様々な試行錯誤を続けていた。東京での生活、画家・瑛九との交流、旅行、具象画制作、セザンヌやモンドリアンへの傾倒、etc.。これらの中で多分除々にではあったが把握しかけていた自身納得のいく表現。しかし時代は彼を戦争へ召集し、更に抑留へ。ここでの極限状態での思考が結果として起爆剤になり、円は出現したのではないか、時系列的にもそのように考えられる。

・・足掛け七年の軍隊生活とシベリア生活で、ボヘミヤン  は改造した。……それはただ明るさであり太陽と共に  在るという生物としての感動の明るさに結びつくこと  にあるのではないか。(芸術新潮 1958年7月号)

ここで、シベリアの太陽が円になった、などという叙情的な解釈は大きな誤解の元である。しかし、シベリアの絶望の果てに見た太陽の存在、そこからのインスピレーションが、自然における、ものの存在の象徴のひとつとして感じられた事には間違いなかろう。円出現の追求が本論の目的ではないので、ここでは以前当館にて開催した個展パンフレットに述べた“禅の円相に近い理解がひとつある”という再指摘のみに止めたい。

 「人は生まれてくる時代を選ぶことが出来ない」と、オノサトは生前よく夫人に語ったという。

【略年譜】

1912(明治45)年 小野里利信として長野県に生まれる。
1922(大正11)年 桐生市に移住。
1931(昭和6)年 日本大学工学部に入学するが中途退学。画家を志し制作を開始する。
1935(昭和10)年 黒色洋画展を結成。翌年まで14回展を行なう。
1937(昭和12)年 自由美術家協会が結成され会友として参加。
1942(昭和17)年 応召。満州で終戦を迎えるが、その後3年間シベリア・ハバロフスク地区に抑留される。
1948(昭和23)年 復員。
1949(昭和24)年 生活のため中学校の講師となり、また養鶏業も始める。
1951(昭和26)年 田口智子と結婚。
1953(昭和28)年 神田タケミヤ画廊で初個展を開催。作品は抽象性を強める。
1955(昭和30)年 完全な抽象「ベタ丸」(円を単色に塗る)を制作。以降1959年頃まで続く。
1960(昭和35)年 作品表現は「円を分割する」手法に変わる。以降1968年頃まで。
1962(昭和37)年 南画廊での初めての個展を開催。以降、ヴニス・ビエンナーレ出品など国際的にも評価が高まる。
1969(昭和44)年 作品は「正方形の卍型分割のシステム」が加わり、以降表現は多様化する、以降没年まで。
1978(昭和53)年 文集『実在への飛翔』が出版される。
1986(昭和61)年 急性肺炎のため桐生の自宅で死去。享年74歳。

        (岡)

 【参考出品】

 香月 泰男  1911〜1974 KAZUKI,Yasuo

山口県に生まれる。東京美術学校・西洋画科を卒業。国画会等に作品を発表するが、昭和18年召集され大陸へ出征。満州で終戦を迎えるが、続けて22年までシベリアに抑留される。

復員後すぐに虜囚体験による《シベリア・シリーズ》を開始し、没年まで全57点を完成させた。前記したオノサトと、同じ抑留体験を持つ比較対象として、当館蔵品より1点を参考出品とした。  (岡)

 

 

 石井 壬子夫  1912〜1990 ISHII,Mineo

石井は戦争の時代を、現職の教員として過ごした。

 昭和10年、東京美術学校・図画師範科を23歳で卒業した彼は、直ぐその4月より茨城県立水戸中学校に赴任する。この頃は、すでに戦争の匂いのする時代となっていた。しかし伝統あるリベラルな校風、また彼の担当科目が重要視されない進学校であったからだろうか、彼の図画の授業は時に電気蓄音機を持ち出す程、自由な雰囲気で行われた。

そして開戦後となっても、図画に限らず平常な授業形態を続けていた水戸中学校だったが、戦局が日増しに悪化する昭和18年頃になるとガラッと様子が一変したと言う。この時代、国民生活全般を、軍部はヒステリックな全体主義で強行に支配していった。その手先は僧侶や退役軍人、町内会組織などである。そして学校では教員がその任にあたり、少年達を相手に時代形成の一翼を担った。

そんな様子は当時の水戸中学校の生徒の目に、教員達の明らかな苛立ちとして映ったという。そして若く情熱もあった石井は、その実直な性格も手伝ってか、この任を懸命に遂行したという。当時としては、時局に鑑みた当然の義務感である。彼の手元からは、進んで多くの生徒達が戦場へ向かったらしい。しかしここでの体験が彼の戦後の人生を決定付けていった、そう思える。

 石井は昭和19年、群馬県立桐生高等女学校へ転勤となる。ここへ来てからの彼は、それまでとは逆に銃後の軍事協力に駆り出される女子学生をかばい、軍人ともやりあう様になったそうだ。そして、彼は58歳まで教員生活を続けたが、その間絵はあまり描かず、専ら音楽を聞いていたという。そして約30年間、水戸からの通知や案内状をもらいながらも、決してそこへ足を向けることがなかった。

定年後になってから出席した同窓会で、彼は「私は大変皆さんに申し訳ないことをした」「桐生に来てからは女子校だったので、生徒を戦場へ送らなくて助かった」と語ったそうだ。

 そして定年退職後に再開された制作活動においても、戦争は大きな影を落としている。それは《自己像》と《ヒロシマ》シリーズとなった。自身で命名した《自己像》とは、「一日不描、一日不食」と自らを堅く戒め、毎日欠かさず描き続けられた自画像デッサンの事である。61歳の頃から始められたこれは、没するまでの約20年間続けられたので、計算上でも数は7000枚以上に上る。

また《自己像》より数年遅れて開始された《ヒロシマ》は、よりはっきりとしたテーマを設定しシリーズ化された。命名からも解るように主題は原爆の街・広島。彼は文献を集め、自らも現地を踏み取材活動を行なった。そして完成した作品は、朽ちた壁、レンガ片、あるいは骸骨などの描写であった。決して“きのこ雲”ではなく。

 石井は戦争画を描いたわけではない。しかし彼の画家人生は、青年期の戦争体験で決まっていたのかもしれない。その直接的表出が《ヒロシマ》。そして《自己像》は、自分自身の位置、その自己確認の為に行なわれた彼にとっての生きる術であった、と思える。これは生涯続けられた。そして画家は作品を以てして、戦争に対する自身の態度を明らかにしよう、としたのだった。

【略年譜】

1912(明治45)年 香川県に生まれる。幼年期を新潟で過ごす。
1923(大正12)年 父が仕事をやめ、家族と共に郷里の足利にもどる。
1932(昭和7)年 東京美術学校・図画師範科に入学。
1935(昭和10)年 東京美術学校卒業。茨城県立水戸中学校に教諭として勤務。
1944(昭和19)年 群馬県立桐生高等女学校に転勤。以降、葉鹿町立葉鹿中学校(足利)、栃木県立足利高等学校に勤務する。この間美術教諭の仕事に専念し絵は余り描ず、専ら音楽を聞き過ごしたという。
1970(昭和45)年 教諭を退職、武蔵野美術学園研究科に入学。自画像に強い興味を抱く。
1971(昭和46)年 主体美術展に入選。以降出品を続ける。1972(昭和47)年 武蔵野美術学園卒業。足利市民会館画廊で初個展。以降地元での個展を中心に発表を続ける。
1973(昭和48)年 ヨーロッパ旅行。この頃より毎日1枚自画像を描く様になる(後にこれを自己像と呼ぶ)。
1975(昭和50)年 この頃から広島をテーマとしたシリーズに取り組む。
1990(平成2)年 煥乎堂(前橋市)にて個展。石井壬子夫画集、刊行。肺炎にて死去、享年78歳。

        (岡)

 

 鈴木 満  1913〜1975 SUZUKI,Mitsuru

美術作品の評価とは別の世間一般において、鈴木は自作《学徒出陣》に関わる一連の事件、その作者として世に知られている。

 鈴木満31歳。彼は戦時下の昭和19年3月、大作《学徒出陣》を陸軍美術展に出品し、誉れ高い「情報局賞(銃後を主題とせる作品中の優秀作品)」を受賞した。また続く全国巡回においても、作品は人々の共感の涙を誘い、絵ハガキは飛ぶように売れたという。

この頃、戦局の悪化は、ついに学生の動員にまで及んでいた。「学業はおしまい、今はともかくお国の為に」と大学卒業は繰り上げられ、若者は次々と戦場へ送り込まれていった。画中に描かれた、皆が一丸となって走り出す飛行服や学制服の若人、その姿に観客は自らの家族をダブらせた事だろう。

 嘘と秘密主義が支配したこの時代、戦争画の世界もまたそうであった。陸軍の依頼により制作は始められたのだから、《学徒出陣》は正しく戦争画である。しかし上記したように、当時の国民感情に対しリアルな共感を促す対象となった点において、この作品は戦争画と言えど他のものとは一線を画する、そのように考えられる。

 膨大な犠牲が払われ、日本は翌年の夏、敗戦でその終わりの時を迎えた。アメリカ進駐軍の統治の進む中、《学徒出陣》を含む戦時下に描かれた多数の戦争画は、東京に集められた。そして昭和26年、アメリカ本土に持ち去られ、封印されたのだった。これが再び世に登場するのは昭和38年になってからである。すでに時代は高度成長期となっていた。ひとりの日本人による偶然の発見に世論は騒ぎ、日本政府は正式な返還要請を行なう。

そして遂に昭和45年、作品群は返還された。この全 153点は、無期限貸与という妙な扱いとされた事もあり、現在でも東京国立近代美術館にて、実質的に殆どのものが死蔵されている。この返還作品の1点であった《学徒出陣》が、見事に模された偽物にすり変わっていた事件は当時、美術界のみならず社会面でも大きな話題をよんだ。誰が? いつ? 何の目的で? 作品サイズは小さくなったとはいえ、 120号大の模作をわざわざ作り、それも軍の管理下にあったものとすり替える離れ業をした犯人は、現在でも分かっていない。作者自身が認めるように、なかなかの描写力を持った腕の持ち主。プロでもそう多くはないはずなのに。

 この二度の世間の注目は、鈴木に偶然降り掛かった事件というより、むしろ善かれ悪しかれ効果的に、人生の転換を促したと考えるべきであろう。難聴である上に結核を患っていた彼は、兵隊として使いものにならなかった。また従軍も出来なかったので“銃後の画家”として彩管報国に勤しんだ。確認できるだけでも相当数描いている。

しかし《学徒出陣》を頂点に世の注目を集めたのも束の間、彼は終戦直後から永い闘病生活を強いられる事となる。

中央画壇から離れ、東京・町田に引きこもり、病魔と戦いながら細々と試作を続けていった。そんな彼が不意に偽物騒動で、再び世間に引っ張り出される事となる。そしてこれを機に画壇への再起を果たす。しかしまたしても5年足らずで、彼の命は消滅を迎えたのだった。

 晩年の5年間に発表された作品で、彼の表現はシンボリックに結実されたと考えられる。それはあの“ヨーロッパの古い町並みに佇む、大きな瞳に憂いを湛えた女性像”としてである。永い思考錯誤の果てに完成したこのイメージは、言語による解釈を拒むが如き不動性を保つ。

それほど徹底している。だからこそ、よけい見るものは画家自身の人生体験に根ざした絶対的必然性をも想像したくなるものだ。なぜこの顔なのか? なぜこんなに淋しげなのか? 鈴木はもう一方で母子像も度々テーマとしていた。しかし生涯、死と隣り合わせであった彼に子供はいない。

また前半生は“人の死をテーマとした画家”と言ってもよい。つまり死は彼自身の生と、常に表裏一体で存在していたのだ。この“命そのものの意味”、ここら辺りに答えは確かにあるようだ。

【略年譜】

1913(大正2)年 静岡県に生まれる。
1927(昭和2)年 准教員養成所に入学。図画教師にその画才を見い出され、熱心な薦めにより画家への志望を固める。
1928(昭和3)年 上京し苦学を重ねながら太平洋画会研究所に入所。
1931(昭和6)年 太平洋画会展に初入選。
1933(昭和8)年 帝国美術院第14回美術展覧会に入選。
1937(昭和12)年 この頃、肺結核を病み一年間療養生活をしいられる。
1944(昭和19)年 陸軍美術展に《学徒出陣》を出品、情報局賞(銃後を主題とせる作品中の最優秀作)を受賞。
1947(昭和22)年 仲間と共に示現会を結成。
1948(昭和23)年 画家・青木純子と結婚。
1956(昭和31)年 結核再発、また後に肝炎を悪化させる。
1968(昭和43)年 ヨーロッパ旅行へ出かけ各地で取材研究を続ける。
1969(昭和44)年 帰国。
1970(昭和45)年 戦後米軍に接収され、この年アメリカから返還された戦争画の内、鈴木の《学徒出陣》が本人により贋物であることが確認され話題をよぶ(本物の所在は現在も不明)。
1971(昭和46)年 日本橋高島屋で初個展。以降、兜屋画廊、松坂屋などで個展を開催。
1974(昭和49)年 サンケイ新聞の連載小説、遠藤周作『彼の生き方』の挿絵を描く。
1975(昭和50)年 原発性肝癌のため死去。享年62歳。

        (岡)

 

 浜田 知明  1917〜  HAMADA,Chimei

浜田の“戦争の時代”の記憶は、陸軍一兵卒として直に体験した軍隊生活に他ならない。

 彼は東京美術学校の卒業と同時に、足掛け4年に渡る軍隊生活を送った。ここで体験した不条理な苦悩は、やがて時間の経過とともに自己の意識とは関係のない終戦という形で、一応の終わりを迎える。しかし画家である彼はこれを忘却の彼方へ押しやる事はなかった。それは戦後、画家を代表する銅版画シリーズ《初年兵哀歌》となり結実したのだ。

ところで浜田というと専門の銅版画家という印象が強いが、実はこの《初年兵哀歌》は自身の銅版画制作の中でも第3作目という早い時期に位置している。美校時代の彼は試作的油彩を主体に制作していた。そして卒業後は戦争による画業の空白期をもつ。

つまり彼が実質的制作を始め、またその発表を行なった段階で、表現はすでに運命的と言ってよい程、方向性が決定付けられていたのだ。無論それは戦争によってである。浜田は、最初から浜田らしかったのだ。

 いずれにしても《初年兵哀歌》は復員から5年を経て発表された。そして以降約7年間、この戦争の記憶と告発に直接的また間接的に関連した表現は、シリーズとして集中的に制作されていく。それは初期には説明的であり、やがて除々に凝縮されたイメージへと変化していくものであった。

また昭和40年頃になると、ヨーロッパ滞在の体験から、一見妙ではあるが“ギロチンと貞操帯”に興味を引かれる事もあった。これはつまり“革命と戦争”であるという。彼の思考が急に変わった訳ではない。やがて戦争のテーマは自身の体験告発だけでなく、同時代的な“戦後の戦争”へも関心を向かわせていった。彼にとって戦争は、決して断ち切ることの出来ない問題であったのだろう。そしてそれは今なお、継続している。

 では彼の軍隊生活はどんなものだったか。…兵隊は上官の意のままに動く人形である。初年兵は完全ないじめの対象である。何の理由もなく殴られ足蹴にされても我慢するしかない。

非人間的で理不尽な世界、彼は肉体的苦痛以上に、人間性を無視される精神的な痛手に苦しんだそうだ。そして彼は決意した。徹底して劣等生でいく事を。上から抑えられれば、される程に反発する彼の気質は、無論軍隊内で誉められたものではない。但しひとつだけ彼も誉められた事があった。

「叩かれ方がうまい」。彼は顔を引っ込めるところを逆に突き出した。理不尽なものに対する彼の態度の一端が窺える話である。そして正にこの事は、彼の作品表現ともオーバーラップして見えてくるのである。

 戦地を実体験した画家は、例えば今展でも紹介しているオノサト・トシノブや香月泰男などが上げられる。状況はそれぞれに異なるも、その誰もが決して越えられない壁の中での“喘ぎ”を体験した。特に浜田の場合の喘ぎは、軍隊内務班での“じめじめとした、いじめ”であった。閉ざされた世界で、救いのない状況におかれた彼の苦悩。浜田は自殺する事ばかり考えていたという。

 初年兵哀歌は、戦争で受けた怒りを、作品を通じ主張するという性格のものではない。むしろ“凝縮されたイメージを提示するというやり方”と申し上げた方がよい。作者自身も「あんまり主張が露骨に出てきますと、なにか説明的になりすぎて、おもしろくないと思います。」(みずゑ 1972年7月号)と答えている。またそんな制作の姿勢は自身の作品数にも表れている。

“なまけもの”を自認する寡作な浜田。彼の銅版画作品は、約40年間でわずかに 160点あまり、である。

 通常このようなテーマを設定した場合、初年兵哀歌のオンパレードとするのが常道であろう。しかし今展は、作品を“鑑賞対象”とし感じる事をもって、戦争の認識に繋げていく事を試みるものである。よってあえて《初年兵哀歌》シリーズでも割愛したものもあり、またその逆もある。それは一重に造形的な視点を選択基準の第一義とした事を、念の為ここに申し添えておく(無論その選択には多分に企画者サイドの主観を含んでいる)。

【略年譜】

1917(大正6)年 高田知明として熊本県に生まれる。
1939(昭和14)年 東京美術学校・油画科を卒業。同年、入隊し翌年には中国大陸へ派遣される。
1943(昭和18)年 兵役満期で除隊する。
1944(昭和19)年 浜田久子と結婚。翌月、応召される。
1945(昭和20)年 終戦により復員する。
1950(昭和25)年 本格的に銅版画の制作を開始し、戦争体験を踏まえた《初年兵哀歌》のシリーズ制作が始まる。
1953(昭和28)年 銀座フォルム画廊で初個展を開催。以降現在まで、各展覧会に出品し確実な評価を受ける。また1970年代後半以降は国内外の美術館で個展が開催されるまでになる。
1956(昭和31)年 この頃から男女の愛、また社会批判や風刺をテーマとするようになる。
1964(昭和39)年 この年から翌年にかけてヨーロッパに出掛け各都市を廻る。
1983(昭和58)年 この年から彫刻の制作も開始する。
1993(平成5)年 大英博物館・日本館(ロンドン)にて個展開催。

        (岡)

 

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