財団法人 大川美術館     OKAWA MUSEUM of ART, KIRYU

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戦争の時代、画家は画家であったのか?

岡 義明

 松本竣介に限らず当館で扱う画家は、昭和の前半を活躍の舞台とした者が多い。そしてこの世代の者達は、多かれ少なかれ戦争という事実に直面している。ここで言う戦争の時代とは、つまり昭和10年代。今まさに“昭和10年代は戦争の時代”と述べたが、無論この物言はひとつの見解に過ぎない。時代とは、人それぞれの価値基準また解釈により、いかようにも捉えられると考えられる。これは大前提である。

 いかようにとはいえ、やはり昭和10年代は戦争の時代であった事に間違いはない。“戦争”はこの時代、絶対条件の如くに存在し、全体をほぼ完全な形で掌握していた。“聖戦”“大東亜”“総動員”“銃後”、そして画家で言えば“彩管奉公”など。時代を象徴的に示す多くの言葉は意図的に生まれ、そして生まれるごとに徐々に、確実に、否応なく、日本国民の意志を戦争の為に浪費させていくのであった。

もちろん画家たちもその例外ではなかった。しかし全ての画家が、「一人の国民として国の為、戦争に協力せよ」という軍部の要請を、皆が皆「はい、そうですか」と応えた訳ではない。だからといって抵抗の姿勢を示すのも並大抵の事ではない。

絵具の配給を止められる程度ならまだしも、下手をすれば我身を危険に晒しても、という覚悟が必要だった。画家たちの対応は、立場、主義、思想により様々だった。藤田嗣治、中村研一らに代表される戦争記録画制作に積極的に参加した者もいた。「わしにゃあ戦争画は描けん」と言って兵隊として戦場に送られた靉光もいた。

降り掛かる状況はどうあれ、少なくとも彼らは個々人の意志で歩むべき道を選択したのだ。そしてこの事は、美術という手段を用い自らの意思表示を可能とする術を身に付けていた画家たち、彼らが初めて直面した、画家としての社会的な態度表明、いやそれ以上に画家とは社会における何者なのだ、という鋭い問いを突き付けられたその瞬間でもあった。

また同時に、生まれてこの方、社会の厄介者のような立場にあった彼らが、初めて国からの御墨付を賜り、胸を張り、国家レベルで社会に貢献できるという、初体験でもあった。画家たちの心は大きく揺れ動いたはずだ。

 さてここで当時の画家の立場を考えてみる。確かに陸軍なり海軍なりに従軍し、戦争記録画を描くことはこの時代、社会的な意味での“主流”であった。それを軸に考えると、例えば松本竣介らが行なった戦時下での新人画会の活動、また福沢一郎の治安維持法違反による検挙など、これらはごく微力ながら時局に抵抗した“支流”という事になるだろう。

そういった如何にも整理の行き届いた時代把握も否定するものではない。しかしこの捉え方が、感性という枠が外された “理解”という範疇で行なわれている場合、これが果たして表現者としての画家の扱いなのだろうか、という疑問にかられる。どうも生身の存在感を喪失した表現の変遷、そのサンプリング化のように思えてならないのだ。

そしてこれは系統だった美術史の分脈だけをもってして、作品そのものの制作(発生)にまで言及するという危険な解釈にまで繋がっている。実はこの辺りの疑問が今展企画の動機のひとつとなった。尚、後で述べるが、実は戦争記録画自体が、そんな扱いをされても致し方ない代物だったのだが。

 何れにしても今展は、構築された歴史観の枠組によって作品評価を位置付けるという従来の方法ではなく、先ず画家の歩んだ画業を主体的に捉え、それを縦軸方向で並列提示してみる事を意図した。そして出品画家は、戦争記録画制作者のみを扱ったものではなく、かつ作品の制作年代も昭和10年代に限ったものでもない。当事者組、戦後の追想組、様々いる。また従来より当館で発掘した画家も多いのだが、それぞれが極力異なる立場で戦時下を過ごした者となるように努めた。

ある者は従軍画家(清水登之)として、また一兵卒(オノサト・トシノブ、浜田知明)として戦地に赴き。片や銃後の画家(鈴木満)として、また教育者(石井壬子夫)として内地で過ごした者。更にあの原爆で家族を失った者(丸木位里・俊)もいる。尚ここでは敢えて松本竣介を中心的に位置付けてもいない。

しかし、いずれにしても間違いない事は、彼らはいわゆる“表現者”としての“本来あるべき画家”として、それぞれがそれぞれに、当時またそれ以降においても、命ある限り、自分自身の制作を続けてきたという事実である。そしてその画業の変遷には、本人の意志が何れにせよ、お構いなく、戦争という決して無視出来ない事実が関与していたのである。

つまり今展では、結果として時代の記録者という役割を担った画家たちによって、思想や言葉としてではなく、あくまで美術、それも完全なる表現という手段において明らかにされた “戦争の時代”、その特異な時代性、その一断面を微力ながら探ろうとするものである。そして、その方法は認識や共感ではなく、あくまで感受として、である。

 ところで基本的解釈として、戦争記録画自体、美術という文脈で捉えてよい物なのだろうか? あれは本当に表現としての機能を有し、そして人の感性に作用を及ぼす美術作品なのだろうか? これが実は、もうひとつの今展企画の動機なのである。

 それを考える前に“戦争画”という言葉の範囲を確認しておきたい。“戦争画”という括り方は様々あるが、今回のシチュエーションとしている昭和の前半に限定した場合、主に2つが考えられる。ひとつは、いわゆる十五年戦争中における昭和13年の日中戦争勃発あたりから終戦までの間、軍部主導の元に描かれた“戦争記録画”。

そしてもうひとつが、戦時中を含めたその前後の時代を背景として、個人的な思いを起点に描かれた作品をも広く含めた全般、である。つまり今展の範囲は後者に属し、またここから考える疑問は前者に属している。

 さて“戦争記録画”についてであるが、結論から申し上げて、一部の例外を除き、正直、美術作品と呼ぶには程遠い代物としか思えない。私自身、直接、記録画に触れた機会は数える程しかないが、その印象を元に図版などに紹介されている他のものも、ある程度は予測できる。できると言うか「できてしまう」という、その程度のものという言い方がこの場合正しいのかもしれない。

それらはほんの数年という短期間に、ぞくぞくと描かれた。その巨大画面に登場する人間群像は、どれもが再現的描写力を多分に生かしたものであったが、それでも年代別には多少の変化を見せている。順を追ってみると、日中開戦の頃から描かれ始めた劇画的、またはイラスト的な描写(挿図2参照)、これらは現代のゼロ戦のプラモデルのパッケージに描かれた絵と見間違うばかりである(鶏と卵ではないが、どちらが先でも話は同じだ)。また昭和18年以降の戦局の急激な悪化に呼応するかのように登場した、正に猿芝居的に誇張された地獄絵図さながらの死闘図(挿図3参照)。

また、やや誇張された表情は含んでいるも、新聞の報道写真と連携された記録画的意味の強いもの(挿図1参照)、などである。無論、現代の視点における観察として、当時との時代背景の決定的な差異は認めたとしても、美術作品か否かというレベルにおいては、その全体の印象に、こういった評価を与える事にほとんど無理はないだろう。しかしこういった“代物”を描けてしまった者たちもまた、正しく“画家”であったのだ。

その一人に、一貫して戦争画に意欲的に取り組んだ鶴田吾郎がいた。彼は戦後その戦争協力を咎められた時「我々は思想家にあらず画家なのだから描きたいものは何だろうと描くのだ」と述べたそうだ。人間として余りに無自覚な画家の姿がそこに見えはしないか。そして松本竣介も終戦直後、次のように記している。

「戦争画は非芸術的だと言うことは勿論あり得ないのだから、体験もあり、資料も豊かであろう貴方達は、続けて戦争画を描かれたらいいではないか」(昭和20年 朝日新聞へ投稿したが採用されなかった文 文中の「貴方達」とはかつての従軍画家のこと)。問題は“画家としての社会に対する態度”であると思う。言わずもがな、画家も社会の一員であるのだから。

 続いて観客側の反応をみてみたい。実際、戦時下における戦争記録画の公開は国民の興味を強く引いたそうだ。最盛期に入場者数は以前の官展の十倍にも達したと言われる。ただしここで観客は、芸術的感銘に射たれていた訳ではない。そこに展示されたものが、律儀な記録画またはおぞましい死闘図であっても、彼らは事前にマスコミ経由でインプットされた戦況を画中に重ね合わせていた。

それは情報を元にした一定の文脈により、日本軍の動向をより強く再認識し共感する行為であった。死闘図においては正に皇軍の殉教図のように解釈されていたそうだ。そこには無論、感性の相関作用などあろうはずが無かった。

 そしてこうなる事を要求し操作したのは、もちろん軍部であった。しかし彼ら自体、美術を表現行為というレベルにまで理解できる筈もなく、むしろ単なる目に見える事物を平面上に再現する技術ぐらいにしか捉えていなかったのだ。軍人とはそんなものなのか?

 結局、戦争記録画の良否、いやそれ以前の問題として、これに関与した、発信・操作・受信する全ての者達の間に、美術として成立させる為の基本的ルールさえ存在していなかった、のだ。断っておくが、だからといって戦争記録画は存在理由がない、封印でもしてしまえ、などと短絡的には思えない。事実は事実。少なくとも事実を現実と捉え、そこから学ばなければ真実は見えてこない、と思うからだ。そしてこの事は、取りも直さず我々自身の“明日は我が身”であるのだから。

 また今展で、いまひとつ考えたい事に「作品内における“表現性”と“思想性”の相関関係」が上げられる。これは制作途中に画家内部に発生する思考上の葛藤であり、また簡単に言えばバランスの取合でもある。思想なくして表現とは成り得ないし、思想が強すぎると逆に表現の舞台としての作品の成立、そのものの弊害とさえ成りかねない。それはあたかも多弁である事が度を超し、聞手の理解の弊害にもなってしまう構造に近しい。

 例を上げて考えてみよう。松本竣介《運河(汐留近く)》(cat.no.27(2))の作品成立の大きな柱となるのは造形性である。その強固な骨格は“戦時下における人間性の喪失を表現している”という、思想的解釈も可能とする側面を生み出している。しかしここで使用された造形性は、あくまで美術として成立させる為のひとつの手段であり、そして解釈は表現した事の結果である。

しかしその結果が、あたかも作品の最終目的の為に仕掛けられた、強い思想の表出の如くに考えると、これは問題がある。画家は思想的な指導者たらんとして、その武器に絵画(色彩とフォルム)を手にした闘士ではないのだ。彼らは本来“画家”にならんとする根源的動機を持ち、自らを立ち上げた者たちであるから。

 このように、画家をある局面だけに注目して位置付けてしまう作業は大きな曲解を招くものとなる。それは、松本竣介を反戦抵抗の画家か、ヒューマニズムの画家か、という二者択一するだけの議論。また丸木夫妻の《原爆の図》だけを以てして、原爆反対者としか括れない評価。と同じ事である。つまりこういった考え方こそが、画家を全く画家として捉えようとしていないのだ。私はこれを大きな不満と感じている。

 今展の副タイトルの如く、既存する「美術」という特殊な機能は、時々によりどのようにも解釈可能な「社会」という場に於いて、これまた不可解な「人間」という画家により、いかようにも仕掛けられていく。よってその源となる画家、彼らの責務は、到底はかり知れるものではないのだろう。

               (当館学芸課長)

 

                      

                      

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●挿図1 宮本三郎

    《山下・パーシバル両司令官会見図》

    1942(昭和17)年 東京国立近代美術館蔵

 

                      

                      

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●挿図2 中村研一《マレー沖海戦》1942(昭和17)年

    東京国立近代美術館蔵

 

                      

                      

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●挿図3 藤田嗣治《アッツ島玉砕》1943(昭和18)年

    東京国立近代美術館蔵

 

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