財団法人 大川美術館     OKAWA MUSEUM of ART, KIRYU

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日記にみる…清水登之・滞欧そして帰国後の軌跡

                   岡 義明

 日記を書く者、書かぬ者…。もちろん人それぞれである。しかし“ズボラ”を性分とするものが多い画家にあって(偏見か?)、几帳面に毎日欠かさず日記を書いた清水は、ある意味で驚くべき存在と呼べよう。一部の欠落を除き、ほぼ全生涯を網羅している自筆の28冊の日記は、現在当館の所蔵となっている。その書き始めからの経緯、また確認されている状況やその存在意義などは、以前実施した第24回企画展『清水登之・滞米日記と素描』の冊子にて解説している。詳細はそちらを参照されたい。

 さて当館と清水登之の関係は深い。とは言っても開館以降、急速に深くなっていった。その興味の発端は、当館の主軸画家・野田英夫と同じ渡米画家という経歴を持つ者、としての関心からである。既に当館では、前記した滞米時代の企画を1994年に実施。そして更に遡ること1989年の第3回企画展で『清水登之・源流展』を実施してきている。結果的に、ちょうど5年周期というサイクルでライフワークの如くに開催してきた。そして今回が、彼の没年までの活動を視野にいれた、いわば最終章としての開催となっている。当館としてもひとつの区切りと考える。

 ところで、日記とはその読者により(この場合は企画担当者)、いかようにも解釈が可能な代物であると言える。つまり日記は毎日の事項を当日の内に列記するものであるから(清水の場合は数日纏める場合もあったが)、一連の事実が段階的に整理された状態で理解出来るものではない。つまり日記を読む作業というのは、行間から読み取り推理する感覚に近いのである。ましてそれ程、感情を込めず、むしろ淡々と書かれた清水の日記であれば、なおさらである。一度の解釈、読破で終るものでないことを、ここに改めて確認しておきたい。

 さて、ここからは日記に則して読み取った、彼の渡欧から帰国を経て、従軍画家となり、そして昭和20年に没するまでの軌跡を辿ってみたい。

 “渡米派の画家・清水登之”とは言うものの、彼にとっての渡米は、つまり渡欧という目的の為の足掛かりにしか過ぎなかった。経済的理由によって予想外に長居してしまったアメリカ生活であったが、大正13年、念願の大西洋横断で新たな人生の幕は開かれる。そしてパリに着いてからの彼は、在欧日本人や、かの地の画家達を問わず、実に旺盛に交流した。

主だった者だけあげても…一緒の船で渡欧した三宅克己、そしてパリ邦人画家の中心・藤田嗣治は無論(但しやや静観しながら)、また間部時雄、原勝郎、田中保、小山敬三、海老原喜之助、清水多嘉示(彼とはアトリエも隣どおし)、林倭衛、川口軌外など、ぞくぞくといる。

特に年齢が近いせいか川口の息子・京村と長男・育夫は、近くのルクサンブール公園でよく遊ぶ仲だった。また滞米時代から旧知の仲、国吉康雄がパリに来た時もしばしば互いの住まいを訪問し親交している。因みに彼とは帰国後の昭和6年にも再会する機会があったが、その友情に変わりはなかった。

更に著名人たちにも接近している。例えばサロンドートンヌ審査員・ザッキンともしばしば交流し、また機会を捉え評論家ロジャー・フライとも面識を得ている。しかし日記に会話の内容の記述がない。いつもながら残念と思える。

 パリでも、またスペイン他各地を旅行中でも、彼は常に、アトリエの制作、屋外のスケッチ、美術館の模写と、時間を十分制作に費やしている。勤勉な性格はどこでも変わらない。つまり彼の渡欧は、旅先という一時的な感覚より、むしろ定住し腰の据えた生活と思える。例えば百号の大作にも取り組んでもいる。

また勤勉な性格は、画家仲間が帰国する時に決まって開かれた日本倶楽部での送別会に、まめに顔を出している。まあお付き合い程度ということだろうが。言葉の問題は? 永いアメリカ生活で英語は問題なかったらしいが、パリではやはりフランス語。彼は家庭教師を付け勉強している。しかし英語が出来る者と合うと“やはり助かる”という風であった。そして滞在も1年過ぎると友人が増えた。

またそれに従い、彼らに金を都合する(貸す)事も多くなった。アメリカで苦労した上で蓄めた、ある程度纏った金額は持っていたにしても、彼の堅実な性格では安易な金銭の貸し借りを、どう思ったことだろう。大正15年1月18日の日記には「武井君モ今朝國元ヨリ送金ガ遅レタカラト二百フラン持ツテ行ク 國カラ送ツテ貰フ人ハ呑気ダ」とある。彼の本音だろう。

 彼の家族愛は人一倍だったようだ。長男・育夫が病気になると仕事は全く手に付かず、日記には育夫の様態の事ばかりが記される。また大正13年6月18日の日記には「昼寝ヲシテナイ育夫ハ 夕飯時忙シイノニグズグズ言フ 頭ヲ敲イタ 後ニナツテ可愛相デ可愛相デ堪ラナカツタ コレガタゝキ初メデ終リダロー」とある程だ。

この調子は帰国後に生まれた長女・富美子もまた同様にして、更に二人がある程度成長してからも変わらなかった。彼にとって家族は、何にもましてかけがえのないものであった事が、十二分に読み取れる。

 しかし彼にも悩みはあった(年譜・日記9参照)。それはアメリカ時代から続く人生についての悩みであった。しかし家族の出現とともに、それはある程度緩和されたようだったが、パリで再燃したのである。後記するが、これは帰国後も更に深くなっていく。

 「愛スル巴里」(日記:大正15年9月20日)を離れて帰国の途はゆっくり。清水一家は美術館を回りながら2ケ月近くかけてイタリアを周りナポリへと向かった。興味を引かれたのか、やはりイタリアでの日記は文量が多い。反面、退屈な船旅では俄然少なくなる。日本への途中、上海で弟の清水董三の元で世話になり、年が明けてから神戸港へ上陸。

故郷の栃木駅では町長が迎えに出、早速歓迎会に引っ張りだされ彼は故郷に錦を飾った。この生家へ戻った日の翌々日から4日間、日記は空白である。几帳面な清水には大変珍しい。永い海外生活の緊張が一気に解れたのだろう。

 帰国より2ケ月半たった昭和2年3月31日から、一家は東京住まいとなる。長男・育夫が翌日から小学校に入学するためである。こんな家族の節目ともいえる5月、彼は“生死”について、前にも増して深く考え込むようになる。日記には物事の記述とは別に、上段に“死”という言葉が5日間連続して書かれている(年譜・日記24参照)。この時の精神状態はパリ時代の苦悩の比ではないようだ。息子・育夫、続いて妻・澄子の病気、自らの気力の減退もあったようだ。

また背景には実生活面での金銭的苦労も見え隠れする。前記したが、20歳の渡米以降これは常に抱えてきた問題である。しかしそれが、後の従軍画家となっていく彼の方向性と無関係ではないように思えるのだ。但しこれに関する本人の明確な弁は日記にはない。

 帰国後の発表活動はというと、帰国早々に新団体結成の動きがあった。しかし結局話は纏らず、彼は「二科ヨリ出シテ見ヤウト思フ会ガナイ」として二科展に発表する。ここには以降も出品を続け、昭和4年には樗牛賞を、また昭和5年には二科賞を授賞している。しかし受賞に対する本人の感想は次のようなものであった。最初は「樗牛賞とは情ない」(年譜:日記34参照)とし、次は「二科受賞者發表 僕と伊藤廉と二科賞になり」(年譜:日記43参照)とだけ記し、実に何とも素っ気ない。

 二科賞を受賞した翌月(10月)、清水は仲間と独立美術協会を設立する。その時のバタバタとした様子は、淡々とした調子の文中からも、なかなかリアルに伝わってくる。会発足後は事務的な仕事は増え、来客や会合も増え忙しそうだ。続く翌年の2回展でも動きは活発である。順調な滑り出しと思える。

 そんな時、弟の董三が陸軍通訳として上海へ向かった。そして軍隊とのコンタクトを取ってくれ、清水自身も上海事変の戦地へ向ったのだ。しかし日記を読むかぎりでは、どうも記録画とか従軍という仰々しい感覚ではない。むしろ戦地に風景画のモチーフを探しにいったというふうに見える。但し前段階として昭和3年の上海行きについては、日記自体が紛失している為、この状況は不明である。

 昭和9年の第4回独立展の“不出品同盟の騒動”の様子は日記からも臨場感をもって分かる。しかし彼ら会員間の連携は固い。各人が地方展へも積極的に参加している。だが6回展ではまたも問題勃発…。そんな「洋畫界の急進的な運動を代表する獨立展」(日本美術年鑑 昭和12年)らしい状況を知る資料としても、当日記の存在意義は大きい、と言えよう。しかし、そんな独立も戦争の時代に移るにつれ徐々に様子が異なっていくのであった。会員は個々の保身へ関心を向けていった(?)と思える。

 渡欧した画家だからといって、なかなかすぐに絵が売れるものではない。帰国した彼は先ず、知り合いに金銭的援助を頼み、パトロン探しに多くの手間と時間を費やした。当初の人脈には医師が多かったようだ。またその道の先輩から経験を聞いた。「原田氏ヲ訪問シタ、…作品ハ實二平凡ナモノダ、世渡リ上手ナ男ダカラ繪ヲ賣ル方法ヤパトロン探ス才ノ軆験ヲ聴ク積リダッタ」(日記:昭和2年7月14日)。また肖像画の仕事や風景画などの小品を多数描く。つまり「パンノ為メ」である。

 彼はまた昭和12年頃まで国内各地を多く旅行した。そして人から人へ伝手を頼り、頻繁に頒布会を実施している。それは東京でも同様だった。正に“地方巡業”か“営業活動”のようにである。しかし次々と先へ先へと展覧会スケジュールを入れ、ノルマを達成するように着々と熟していく姿勢には、ある種のプロ意識が感じられる。そして頒布会の合間にも、彼はその土地土地で絵の好きそうな医者や資産家を尋ねては肖像画制作、また作品販売も地道に行なっていた。また美術雑誌の挿絵の仕事もあれば次々と受けた。販売のための色紙制作は、時間さえあれば描き貯めているという感じである。半日で4〜5枚は描ける。結局、永く日本を離れ、画壇での人脈を持たない彼は、こうするしかなかったのかもしれない。

 しかしそれが昭和5年となると、世間の不況風が彼に追い打ちをかけてくる。当時の状況は日記にも垣間見られる。「何更でも不況気、不況気と云って厭やな思ひをさせられる」(日記:昭和5年5月24日)。「今日で四日不愉快な日が續く、何時まで續くことか、この不愉快は 家庭を離れざれは例令一時は持ち直しても生涯續くことだろふ、一日として安楽に製作を續けることが出来ぬ、凡てはマネーの欠乏から来ることは能く知ってる、がせめて本月末頃まで漕ぎ付けたいと不快を我慢する」(日記:昭和5年8月10日)。また逆に「写真から描く肖像画は厭やだ、食う為めには描かねばならぬ、」(日記:昭和7年11月15日)とも言ってはいる。どれも本心だ。

 昭和11年からは、子供の夏休み期間、割りにたっぷりと家族で避暑に出掛けるようになる。多少とも金銭的な余裕が出てきた為か。また富美子も連れ歩けるようになったこともあろう。しかしそれは数年と続かなかった。いよいよ時代が戦争を本格化させていくからである。昭和14年までの国内は、大陸での緊張感は感じていたにせよ、未だ束の間の安定期にあった。

 それが昭和15年頃になると、日記にも「物資統制が明かに各戸へ響いて来た 石炭、薪炭の不足は冬期制作を扣えた吾々画家へは相当な痛手だ、」(日記:昭和15年1月2日)などと出てくるようになる。また従軍作品を発表すると、よく軍人も来場するようになった。戦争は実生活の上でも現実になってきたのだ。

 「陸軍美術協會より金百円也送って来た これは南京郊外湯水鎮に於ける陸軍病院内へ飾付ける為め二十人の画家を動員して一点づつ制作さしたもので十号以上の型とし一点に付き二百円支給すると云ふ池田少佐の約束であった…」(日記:昭和16年1月10日)。清水はこの頃から頻繁に、そして積極的に軍部と行動を共にするようになる。聖戦美術展の審査員には第1回展からなる。航空美術協会の発起人にもなった。彩管報国隊として長期間の従軍も行なう。それと同時(と言っても過言ではない程ハッキリと)に、人生に悩む発言(日記への記述)はさっぱり見られなくなった。“好むとか好まざるとか”いうよりも、むしろ巨大な時代の流れに、彼は自然と自らの身を託していくようになっていった…のだった。

 昭和17年、彼は南方へ従軍した際に台中の飛行場で飛行機が燃えるのを目撃している。その凄さを日記に記しているが(年譜・日記125 参照)少々のんびりしていたようにも思える。現場の臨場感は感じられるが、戦地とはいえ割りと整ったホテル住まいをし、名所旧跡を尋ね、各地の料理に舌鼓を打つ。まるで旅行気分だ。それは未だ日本の戦局がよい時期であったからである。そして南方から戻った昭和17年の後半から彼は、軍主催の展覧会での作品発表、書籍作成の挿画の依頼、また会合なども増え、益々忙しくなっていく。数年前まで個人で(いわば“どさ回り”をして)作品を頒布し、その売れ行きの悪さを日記にグチッていたのが、まるでウソの様である。

 さすが昭和18年になると、従軍するにも意気込みのある言葉が出てくる(年譜・日記135 参照)。そして東京では絵の具も買えない状況となっていった。「絵具は今日限りで何時になれば販賣されるか一時?中止になるので今日中に指定の絵具店へ出頭買求められたしといふ通知を受け取ったので出かけて行く」(日記:昭和18年10月31日 ?は原文のママ)。「美報から絵具 画板 画布の配給券届く 面倒になったものだ」(日記:昭和19年7月16日)。そして昭和19年6月ごろからは、ついに東京の自宅近辺でも緊張感が高まってくる。「敵は小笠原へ押し寄せて来てゐるから何處東京が空襲されるか判らぬ」(昭和19年7月8日、日記)。

 昭和20年は清水の生涯最後の年である。しかしこの年の日記の所在は現在不明である。昭和19年末の日記の文面から考えても、突然書くのを停止したとは考えられない。誠に残念と言わざる得ない。仮に存在したのなら、例えば直接的な死去の要因となったと言われる溺愛の息子・育夫の戦死に対する彼の心情(昭和20年6月4日に海軍省より通知)。また終戦前後の心境の変化によって(変化なしかもしれないが)、彼の戦争に対する考え方を明確に出来た、などと思えるのだが。実に残念である。

 日記には色々な解釈があることは冒頭で記した通りである。それを踏まえ今回は、出来るだけ清水の人間的な部分が語られた箇所を日記より抜粋し、彼の一断面を探ってみた。これはあくまで、今後も何度となく繰り返すべき“日記展”である、と考えたためである。

               (当館学芸課長)

 

 

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