財団法人 大川美術館     OKAWA MUSEUM of ART, KIRYU

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インタビュー

寺田 泉 氏(寺田春弌の長男、絵画修復家)

■日 時: 1999年10月5日
■場 所: 大川美術館・館長室にて
■聞き手: 岡義明(当館学芸課長)……以下、O

〜 人柄について、思い出 〜

O 》 よろしくお願い致します。本日はお身内としての思い出、また同じ道を歩まれる先達としてみた時の、率直なご意見など、お聞きしたいのですが…まずはお身内として、家庭人としての寺田先生はどんな方でしたか?

寺田》 他の家庭との比較は出来ませんけど、家庭はたいへん大事にする人でしたよ。若い時に母親を亡くしてますからね。あと祖父は国鉄に勤めてましたから転勤も多かったですから。いろいろな所へ移り(引越)ますし、だから落ち着いた家庭というのを知らなかったからでしょうね。

O 》 だから逆に家を大切にするようになったという事ですね。母親が亡くなったのは?

寺田》 たしか15、16歳くらいだったと聞いています。

O 》 寺田先生は、性格的に母親からの影響が大きかったそうですね。母親はどんな方だったのですか?

寺田》 確かにやさしい人だったと聞いてます。祖母は、当時としても珍しいロシア正教の信者だったんですよ。信仰心が非常に厚くて、神田のニコライ堂で洗礼を受けたと聞いています。よくテーマとしていた母子像の絵なんかには、表情に祖母の面影が感じとして、出ているように思いますね。祖母の写真と見比べますと分かりますよ。それと僕の母(寺田春弌の妻・以和)ともよく似てるんですよ。

O 》 やはりそういう方を求めるんでしょうね。

寺田》 性格は分かりませんが、容姿は求めるんでしょうね。

O 》 画家を志したのも、母親の影響ですか?

寺田》 推測ですけどね。母親がクリスチャンでしたから、宗教画に触れる機会は割りに多くあったろうと、思われるんです。もちろん子供の頃から、絵は好きだったらしいですけどね。

O 》 なるほど。

寺田》 でも(分かっているのは)ここまでなんですよ。親に対してこういった事を正面切って聞いた事がなかったもので。でも、家庭人としては仕事と家庭を両立していた人でしたよ。もちろん厳しい処は厳しいですけどね。やはり明治時代の人ですから。

O 》 ぎりぎりの明治44年ですね。ところで相当なヘビースモーカーだったとお聞きしていますが…。

寺田》 煙草は吸いすぎでしたね。

O 》 お酒は?

寺田》 そんなにはたくさん飲みませんでしたが、芸大の摩寿意善郎先生とはよく付き合っていたようですよ。気が合うというのでしょうか。割にサッパリとした性格で父親と似ていて、白黒ハッキリ言うスカッとしたタイプだったようですね。時々銀座でやっていたようですよ。雰囲気を楽しむ程度でしたね。

O 》 ところで制作はご自宅のアトリエでされていたということでしたが、自宅の庭をモチーフとした作品もあったようですね。

寺田》 《公園の朝》(cat.no.17)もそうですよ。

O 》 アトリエからは庭が見えたのですか?

寺田》 いえ、アトリエは北側でしたから、見えなかったです。

O 》 北側というのは、やはり安定した光を得るための北窓の為ですよね。どんなアトリエでしたか?

寺田》 30畳近くあったかな。かなり広かったですよ。天井が高くてね。板張で。

O 》 そこへ行くと絵具の匂いとかして?

寺田》 エエ、子供の時は、絵具がチューブから出てくるのがおもしろくてね、父が絵を描いている時、アトリエに行って、いたずらしてましたよ。「次はどの色でしゅか?」てね。子供ですからね。絵具を出して遊んでましたよ。

    〜 教育者として、また表現者として 〜

O 》 仕事場である芸大には週に何日くらい通われていたのですか?

寺田》 入学試験の時を除いて週に3日から、多くて4日。なるべく学校に行って、やるべきことはやってくる、という人でしたから。行けば朝から夕方まで、帰ってくるのは夜遅い時もありました。

O 》 卒業した直後には一時、愛知県に行ってらっしゃた時期もありましたが、後はずっと芸大1本で来たわけですよね。助教授から教授と…。

寺田》 多分、父親が在職年数は一番長いと思いますよ。そんなことは自慢にはならないですけどね。父は在職していた時でも「本来なら、ある程度のサイクルで教授は入れ替わるべきだ。純粋培養の芸大出身者ばかりじゃなくて、外部からの人材も公募制にするとか、色々含めて考えないと今のシステムでは、もう沈滞していくばかりだ」と、よく言ってました。芸大を卒業してそのまま助手から助教授、教授と上がってくる、というのは評価しなかったようですよ。

O 》 世間を知らないで、学校というシステムの中でズッと来てしまうのは、作家の成長としても問題ですよね。

寺田》 父親の研究室を継いだ先生方、例えばK.S.氏とか、I.S.氏とかも、近年は作家としてあまり活動していないようですし、結局そういった方は芸術家じゃないですよね。なぜ芸術家でない方が芸大の教授になるのか? 学生にとっては、いい迷惑ですね。画家としての創作活動が出来ない人が教授でいるわけですから。

O 》 技法材料の方に、ある程度重点を置いている方であっても、そればっかりでは問題ですよね。寺田先生がおっしゃていたように、その辺りのバランスですよね。技術だけでよいという訳でもないし、表現だけでよいという訳でもありませんし…。

寺田》 結局なんの為の技術か、という問題だと思うんですよ。絵を描くための、自分が表現したいものがあるから、そのために研究するわけでしょ。そこが本末転倒になってしまって「ただ技法だけ研究していればいい」「ただ外国の文献を訳していればいい」と、「ただこういった技術がありますよ」と紹介しているのでは、全然意味がないことになってしまいますよね。父が期待することとして話していたことは…ヨーロッパ絵画を変遷という流れの中で考える時、油絵の完成度としては、ルネッサンス後期からバロック時代にひとつの頂点がある、と考えていました。だけど、ただそれを模写するとか、同じことをやるというのではなくて、油彩画の技法を分析、研究し、表現の為に自分なりに再構成する、と考えていたようですよ。つまり「元々表現したいことがハッキリしていない人は芸術家ではない」と、いうことですよ。

 それから画家という事についてですが…、画商とのやりとりから表現を、画風を変えられない人っているじゃないですか。硬直している人。そうゆうのは画家としてウソだと思うんですよ。人間なのですから、生活も意識もその時々で精神活動も変わっていくはずですから、絵だって、全然変わらないのはおかしいと、そんな事をよく言っていました。

O 》 そうですよね。それは画家ではなくて単なる伝統工芸というか…。

寺田》 工芸というか、図柄を単に再生産しているというか…。そのことは父親も口に出して言っていたことですが、「画家として、勉強していくことが、絵に出てこない人は評価できない」と。ぼくも確かにそう思うんですよ。

O 》 正に絵師ですよね。絵を生業としているような。

寺田》 マー、画家も絵を生業とはしているんですけど…「少なくとも作風の変化というものが面白く見えてこないとね。それが画家としては大切」と、時として口に出していましたね。誰を批判しているかとかは、具体的には分からないですけれど…。

O 》 芸大の先生方?

寺田》 ウーン、かも、知れません。それと、画商から「もう画風を替えないでくれ、そうじゃないと、もう売れないから」と言われて変えられない画家っているけど、これも本当じゃない。自分に正直じゃないというか、人間として全く成長していないという事ですよ。

O 》 単純明快ですよね。それじゃー、教授をなさっていた時は色々と、もめたでしょうね。

寺田》 芸大は芸大で狭い世界ですから。「会議ばっかりで、会議のための会議というようなバカな事をやっている」とよく言っていました。今でも変わらないんでしょうかね? 官僚的な体質ですよね。…そんな話を食事の時とかに、よくしてましたよ。芸大に限らず、どこの組織もあることでしょうが。

O 》 修復の現場ではどんな様子だったでしょうか?

寺田》 赤坂離宮の天井画の修復プロジェクトは大変な作業の様でした。

O 》 そこへ寺田(泉)さんも出入りしていた?

寺田》 あの当時はまた高校を卒業しただけでしたから、あっち行ったりこっち行ったりして後片付けしたりして。でも修復の現場はどんなものか見る機会にはなりましたね。

O 》 それが現在の仕事に繋がったのですか。

寺田》 ひとつのステップにはなりましたね。貴重な機会には、なったと思っています。当時は、何も出来ません(役に立たない)でしたけどね。

   〜 好きなもの、そして表現の行為として 〜

O 》 影響をうけた先生(藤島武二、安井曽太郎)との関係は、定かではない(ご存じない)という事でしたね…。

寺田》 エエ、ただ藤島(武二)先生の繋がりとしては、「壷」とか、「壷に差した花」とかのモチーフも、割りとありましたし、かなり(藤島を)意識していたと思いますよ。壷自体が好きでしたけど、モチーフとしても美しいし、元々学生の頃から朝鮮と中国(満州)とかも行っていましたし、その頃からの関心でしょうからね。趣味に近いんでしょうけど…。趣味と言えば背広とかネクタイにも凝るほうでした。自分で選んでね。結構オシャレだったですよ。あと庭いじり、今で言うガーデニングはすきでしたね。

O 》 壷という話も先程でましたが、モチーフという面では割りとオーソドックスと言うか、当たり前の物をよく描かれていましたよね。壷に差した花だとか、風景だとか…。無論、そこにこそ、寺田春弌が表現しようとしたものがあったからでしょうけど。

寺田》 もちろんそういったものがなければモチーフとして描かないでしょうね。それと次のようなことも言っていました。「東洋では静物画は宋、元の時代より独立した主題としてあり、そこにはものに托して心を語り、精神を、人間性を伝えている事実がある。ヨーロッパでは静物画が独立した主題となったのは15、6世紀であり、これに対し、東洋では古い歴史を持っている。このことは造形の本質においてまた発想の起源にも異なるものがある」と。

O 》 なるほど、興味深く思います。しかし静物画に限らず、作為性がほとんど感じられないものばかりを好まれますよね。

寺田》 自然なものですよね。自然が好きですからね。自然を見て、その場所へ行って、感じ取れるもの。作為的なものってのは、つまり…本来自分が持っていて感じ取れて出てくるものか、無理して創っているものか、という違いが、何となくあるじゃないですか。無理していれば、やっぱりつまらないですよ。

O 》 肩に力が入っている?

寺田》 そう、力が入りすぎてるっていうか、その人自身が本当に表現したいというものなのか、売るためにというか、自分の作風を無理して作っている事、あるじゃないですか。

O 》 そう、あと流行(はやり)とか。

寺田》 そう日本人て流行が好きですよね。

O 》 これを頑固と言ってしまうと問題があるのだけれど、確かに我が道を行っていますよね。

寺田》 我が道を行かないと、道を見失うものじゃないですか。

O 》 流行ばかりを追っ掛けていくと、自分が何だか分からなくっていきますよね。

寺田》 そうゆう人、多いんじゃないんですか。

O 》 60年代、70年代の芸大においては、ガタガタと揉めていた時代で、何かにつけ新しい風潮を求める動きが強かったんじゃないですか? その中で寺田先生は我が道を行っていた…。

寺田》 昔からそうですが、我が道を行かなければ、それなりの作品は残せないと思うんですよ。追従者はたくさんいますけど、追従者の作品は、所詮、追従者の作品でしかないわけですよ。

O 》 モノマネ?

寺田》 悪く言えばモノマネですね。それと父はボスではなかったですね。多いじゃないですか、ボスになって子分を引き連れている人。あんまり実力もないのにね。例えば芸大の教授なら肩書きだけは大したものですから、それでボスになっちゃう人いますよね。うちの父親はそうゆうタイプじゃなかったですからね、子分はいませんでしたよ。損得勘定で、自分から子分だと思ってる人はいましたけどね。

O 》 当時の芸大の先生って何人位いましたでしょうか?

寺田》 私の記憶ではたしか美術(絵画では)5、6人。

O 》 会議などしていても、5、6人というのは割りと、もめ易い人数ですよね。

寺田》 そうですね。あとモチーフの話ですけど…、母子の像をよく描いていましたね。《遊ぶ》(cat.no.15)はその代表作と思います。

O 》 (寺田春弌は)クリスチャンでしたっけ?

寺田》 いえ、違います。でもテーマとして興味はあったようですし、ヨーロッパ絵画とキリスト教は不可分といえる程のものですから。

O 》 そこにも母親との精神的な関係が見えますね。ところでこの風景は(《街角にて》 cat.no.10)どこでしょう?

寺田》 これは家の近くの石川町(横浜市)が背景となっていますね。今はもうビルだらけですが。昔は何もない野原で、父は描きにいって、僕は側で遊んでて、そこでも僕は絵具を絞ってね…。

O 》 「次はどの色でしゅか?」ですね。

        〜 フランス気質 〜

寺田》 画家は歳をとってくると、特に日本人の画家は絵が弱くなってくる、というのがあるじゃないですか。ぼやけたような絵具の使い方に、なるじゃないですか。歳をとって、そんな心境になって…。でも父の場合はそうじゃなくて、もっと厳しくなっていく、そんな処は日本人離れしているかな、と感じるんですよ。

O 》 それはヨーロッパ滞在で学んだものでしょうか?

寺田》 そんな永い期間じゃなかったですけど、そんなもの(ヨーロッパ的)を感じ取ったんじゃないですかね。最後まで厳しくあるべきと。ぼやけないでね。父はヨーロッパ、特にフランスが好きなんですよ。

O 》 フランスのどんな処が?

寺田》 個性が強く、保守的だけど、一面革新的というフランス人の性格が好きだったようですよ。本人(寺田春弌)は、けっこう保守的なんですけど、革新的な考えもしている。人間が個々ですよね、集団でなく。

O 》 個人が自律してこそ、よいグループとなる。

寺田》 そう個人がしっかりしていないとね。フランス人は利己主義ではない本当の個人主義ですけど、国に対して自然に出てくる愛情というか愛国心は強いですよね。強制されるのではなく、周りに流されていくのでもなく…。そういう処が好きだったんでしょうね。

O 》 何から、そうなっていったんでしょうね。

寺田》 あまりハッキリと聞いた事がなかったんですが、やっぱり戦時中の厳しい時代を生きて、日本人の国や文化等に対する考え方に疑問を持ったからではないでしょうか。

          〜 最後に 〜

O 》 最後に芸大を永く勤められ、定年退官されて、更にこれからという時期でしたね、亡くなられたのが。

寺田》 定年が近くなった最後の方は、時間も取れるようになりますから、伊豆のアトリエにもよく行ってましたよ。

O 》 でも、定年から1年に満たない内に亡くなられて…。

寺田》 退官の数年前に2回、手術をしていますからね。

O 》 今回の企画が進むなかでも、寺田先生の教え子の方からも色々と意見があったそうですね。

寺田》 「もっと評価されて然るべき」と言って頂きました。有り難いですよね。あと「うちの父親以降、この頃はキチンとしたというか、材料を使いこなして自分の表現が出来る人が減った、油絵だけでなくてもね。」などという言葉も頂きましたよ。それと「持ち込みの企画展は一切おこなわず自主企画を貫き、所蔵作品の質の高さを誇る大川美術館で寺田の作品がどの様に鑑賞する人に評価されるか期待している」とも。

O 》 当館への評価は有り難いですし、また寺田先生については、全くそう思いますね。今回のサブタイトルである「油絵の神髄を求めて」という意味が、そこに集約されているように思えます。本日はお忙しい処ありがとうございました。

                   (文責:岡)

 

 

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