この世に“定まった画家の寿命”などというものが無論あろうはずもないが、特殊な人種と考えられがちな芸術家に対して、どうも我々は少々偏った人間像を期待しているのかもしれない。
例えば…大正ロマンという気運が燃え盛る時代を背景に、志半ばにして結核に倒れた夭折の画家。また
100歳を超えるほどの長命で、ある人生の境地に達し得た仙人の如き老画家、という具合にである。
つまり頃合というか、一般的な平均寿命というイメージはあまり求めていない。これは我々凡人とは段違いに異なった、画家という者たちが生み出すクリエイティブな作品の、その原拠となるドラマチックな生涯を重ねて見たくなる願望の現れなのだろうか。つまり神聖化に近いようなものか。何れにしても寺田の場合のそれは、全くを以てそうではない。
永らく勤め上げた東京芸術大学の教授職から開放されて1年も経たぬうち、彼は自身の死を迎える。享年67歳。永かったのか、短かったのか? それは誰にも判断出来ず、またすべきものではないが、少なくとも画家のイメージにまつわる突飛なそれではないようだ。そして、その生涯で展開された作風もまた、同様であったと言えよう。寸見しただけでは劇的な面白味にはあまりに欠ける?、ただしこれは変化に乏しい平々凡々というものでは、勿論ない。
ここで当企画の主旨を簡単に整理しておく。まずこの展覧会は、寺田春弌の没後20年を経て開催される初の回顧展となっている。彼は昭和11年、東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科を卒業の後、数年を外部で過ごすも、昭和18年より母校の助教授に着任し後進の指導にあたった。またその間、パリ・ルーブル美術館にて油彩画の保存・修復を学び、帰国後この分野において我国の先駆的指導者となり、迎賓館赤坂離宮・天井画を始めとする国内の多くの重要作品にその業績を残した。
また平行して、自らの表現活動とする油彩画制作では、前半生は団体展にて、また後半生は個展による発表形態により、その独自の奥深い品格を宿す世界を展開してきたと言える。そして後年には母校の教授、更に同大学付属資料館館長をも歴任し、実に35年の永きに渡り美術教育に身を捧げたのだった。このような彼の多彩な活躍は、単なる洋画家と呼ぶには相応しくない、また技術屋と偏見されがちな立場とも明らかに異なる、他に類を見ない特異な存在と思われるのである。
つまり、寺田の画業を改めて再評価しようとした当企画は、感覚だけに溺れることのない、確かな技術に裏打ちされた本物の油彩画の紹介であると自負するものであり、また換言するなら油絵の神髄なるものまでも再考しようとした試みなのである。その出品作品は、油彩、水彩による51点と小規模ではあるが、寺田の全貌を範疇としており、回顧展としての要素は最低限満たしているといえよう。
さて寺田の画業について考えてみる。彼の場合、美術に関わるスタンスとして“表現者、研究者、教育者”の3つが見えてくる。つまりこれらの融合が彼の特殊性の根拠である。無論今展は美術展であるため、主旨からして表現者としての紹介を主軸とはしている。しかし同人格の行為・行動であることは変わりなく、他2つの要素を切り離し表現行為のみを語ることは不可能であり、当然眼中から外すというわけにはいかない。
特に表現者と研究者という関係は、制作された作品の表裏を示すものでもあり、より注目を要するであろう。この表現と技術(研究者)の関係は、特に日本人においては技術偏重型に陥りやすいという条件も重なり、相反する対称と捉えられる傾向にもあるが、実は寺田の求めた処は、全くそうではない。本人の著書『油彩画の科学』(当冊子の文献目録を参照)中の“画家の条件”という一節に次のものがある。
・・資質とか才能の上に訓練があり、霊感と発想が感動と 意志の平衡によって計画に移され、さらに表現する自由 が技術として己れのメチエを駆使し、志向する芸術性を 表現できる能力者であるからで、常にその時代の時の証 人としての働きをもつからである。
(『油彩画の科学』あとがき(1971年)より)
明らかに“表現のための技術”と述べている。
また教育者のスタンスとしては、今日我々が直に触れられるものとして、著書『デッサンの学び方』がある。その一部を記すが、ここにも彼の教育者としての姿勢は十分に窺えよう。
・・まず絵は描き方を習うものであると考えることそれ自 体にあやまりの出発があると思うのです。絵は習うもの でなく、眼と手と頭の修練の連関によって進められるも のなのですが、なかなかその真意が理解されていない場 合が多いのです。…(中略)…教え込まれることの多い今日はよほ ど心してかからぬと自己を見失うような根本的な誤りに 陥ることのあることを知っていただきたいと思います。 (『デッサンの学び方』(1958年)より)
これらを踏まえ簡単に画風の変遷を考えてみる。今展は展示点数も限られており彼の変遷を考察する材料として断片的と言わざるを得ないが、そのなかでも特に、初期の作例を探る手がかりが乏しい。それは昭和20年の横浜空襲で、それまでの全作品を消失しているというアクシデントに所以する。この時代、つまり初期を語るものは、今展出品中では卒業制作として母校に残された《自画像》(cat.no.1)のみである。この荒々しい筆致には、内面に燃え盛る若き情熱と、昭和10年前後という当時の美術界の時流とが、ハッキリと見て取れよう。
戦時下より始まった画材研究は、昭和28年からの本格的な留学へと繋がっていく。そして、この時の体験が画風の方向性を多分に確定し、またその精神的基盤の構成を完成させたのではないかと思われる。精神とは当冊子P.10に掲載したインタビュー記事内のフランス気質を中心としたことである。つまり“利己主義ではない本当の個人主義”をベースとし、更に堅牢なる技法が相俟って、寺田の画風は確立するのである。それはある意味で必然による確定であったのかもしれない。以降、表現は確かな信念に基づいた自らのペースにより、着々と進んでいくのあった。
この後に展開された表現の、年代による明確な特定はなかなか困難だが、種々の傾向は散見出来る。グレージングを応用した時期、ペインティングナイフを多用する時期、筆が滑るようにのびやかに踊る時期など、がある。しかしその何れもが、画家がよく使う言葉で記すと「実に絵具が“こなれ”ていて、よく“ついている”」のである。
そしてそのモチーフとなったものは、いわば瓶、壷、花、草叢、林間風景など“衒いのない、ごく当たり前のもの”であった。この辺りの興味については当冊子のP.
9のインタビュー記事を参照されたい。ともあれ画家としての姿勢が実に明確であったことは確認出来よう。
寺田を考える時、どうしても彼自身の言葉を多用してしまうのだが、それほどに彼の場合は自己を明確に分析し、また明快な発言(文章)を残しているのである。この辺りのことについても、単なる感覚にのみ立脚し制作する画家とは一線を画した、独自性としての評価を与えたい根拠である。
・・日々の生活の振幅を油絵の仕組みの上に語らせたいと 立向うのだが、何時も素材の取さばきに時間と困難を伴 うために、はやる感情の抑制を強制されて強い抵抗につ きまとわれている。・・・形式的な、あるいは表皮的な 絵より堅密な体質を持つ絵画への営みは画面愛を醗酵さ せて非情になり勝ちな構成知を包んでくれる・・・とこ んなことを考え乍ら、やがて自分の画面が人間性を主張 してくれることを信じてその日の仕事を終るのだけれど 所詮黙々と忍耐強く仕事するより他ないと思っている。 そして伝統の示す芸術性のはりとファクチュールの根深 さは等閑視出来ないし、そこに作家の芸術性と科学性の 一致も窺えるので私はより強く伝統を尊重する。
(『第1回日仏具象派美術展』(1956年)パンフレット より)
確固とした姿勢が感じられる。引用を更に続ける。
・・メチエの喪出をなげく声は最近西欧からも聞える。こ の声は感覚主義が犯した現代絵画のメチエに対して油彩 画のふるさとを知っている人から発せられた天声である。
(寺田春弌著『油彩画の科学』あとがき(1971年)より)
この言葉の中にこそ“彼を生涯突き動かしたものがある”と思えるのだ。 (当館学芸課長)