財団法人 大川美術館     OKAWA MUSEUM of ART, KIRYU

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鷲田睦子 (鷲田新太の次女)
村田ひとみ (鷲田新太の姪)

                  −敬称略−
■日 時: 2000年2月4日
■場 所: 村田ひとみ宅(東京都大田区)
■聞き手: 岡義明、小此木美代子(当館学芸員)
 
       〜 青年期のこと 〜
 

・・・・本日はよろしくお願いいたします。早速ですが鷲田先生がお若い頃の事など、ご存じの事をお聞きしたいのですが…。

鷲田》 父の若い頃の事はあんまり分からないのよね。しゃべっていた事とか…。
・・・・妹さん(上野芳子、村田ひとみの母)がその辺りのことはお分りだったとか?
村田》 私が母(芳子)から聞いている話では、若い頃、パリへ行きたいと言っていました。日本画をやっていた友達がパリに行くって時に誘われたようで、一緒かどうか分からないけれど、行きたかったようですよ。
鷲田》 元々強い憧れがあったみたいね。
村田》 でも父親が早くに亡くなってて(新太18歳の時)持っていた田圃を切り売りしていた訳だから、最後に売ったお金でパリに行くって言ってたんですよ。だけど、家を長男(新太)だけで潰したって言われたらイヤだから、妹の芳子に「お前は女子大へ行け」と言ってね。それで母(芳子)は東京女子大学に行けたんですよ。それで、母から聞いたんですが、とにかくやめた理由が、母親(新太の母・とし)が意外とあっさりと、パリへ行けと言ったことらしいんですよ。絶対反対すると思っていたようですから。田舎のことなのでパリに行くという事情がよく分からなくって、とにかく留学さえすれば、箔がついて、帰ってきたら画家として認められると、母親が思い違いしているのに気付いた、ということらしいんですよ。だからそんな思い違いされたまま行ったら、大変なことになると思って、急に熱が冷めちったんですって。
鷲田》 おばあちゃん(とし)て、そういった処が凄いのよね。普通「そんなとこ行くな」てところが、「行け!行け!」て言ったんでしょ。
村田》 そう強く思い込んでるのが、凄くおそろしいと思ったんですって。母親を騙してまで行けないって。
・・・・普通騙してまで行きたいと思う処でしょうね。ある意味で凄く真面目ですよね。
鷲田》 あと性格というか、子供が好きで好きで、どこの子だろうと頭なでたりしてね。子供づれの親子がいると止まってじっと見てるのよ。
村田》 本当にやさしい目をして子供のことを見るのよね。
・・・・子供の方も解るんでしょうね。
鷲田》 本当そうよね。子供って犬とか猫とかと同じで…(笑)。あと若い頃の話では、大部さん(大部孫太郎、後に太陽生命社長となり新太後援会の会長も務める、新太の祖父の代からの知合い)が「お前のお父さん(新太郎)が死んだんだぞ」て報せにいった時のことでね…。
村田》 18歳の頃よね。私の母(芳子)が3歳の時で、母と兄(新太)は15歳、年が離れているから。

鷲田》 そう、聞いたその時は何も言わないでジッと黙って絵を描き続けていたそうよ。普通だったら絵を描くのを止めて飛んでいく処でしょうけれど、でも「父親が死んだのに、わざわざ平然を装って絵を描いていたのが印象深い」て大部さんが言っていましたよ。「それほど鷲田は絵が好きだっんだよ」とも言っていました。

・・・・意地っ張りだったんでしょうか。

鷲田》 それ以上に絵が好きだったんじゃないのでしょうか。

村田》 それと、あんまりひねくれた性格ではないんですけど、ヒョッと照れてしまう時ってありましたよね。人が来てくれた時でも、人好きなので凄く嬉しいんだけど、急に「早よ、帰れ!」て言ってしまったりして(笑)。

鷲田》 あと心配性でね。女の子とかが時間が遅くなると、やっぱり「早よ、帰れ!」て言ったりして。時間にはきちんとしてましたよ。

村田》 私なんかもよく怒られたりして…でも凄く心配性だからなのよね。

鷲田》 父(新太)はお金が無くなると大部さんの所へ絵を何枚が持っていったんですよ。そうすると買ってくれてね。会社(太陽生命)の支店が何軒もあって、掛けてもらえたしね。

村田》 それでも親友ていう関係が一生成り立つのよね。あちらがどんなに経済的に援助してても、こちらは(新太)卑屈にもならないし、むこうも認めているし。

・・・・お金が絡んでくると難しくなりますよね。友人関係でも。

鷲田》 若い頃はいいけど、大人になるとね。いっつも大部さん「鷲田、鷲田、大丈夫かって?」て言ってましたよ。

 
       〜 家族のことなど 〜
 
村田》 さっきも言ったように、母(妹・芳子)は東京女子大へ行ったんですけど、個性が強くて、兄(新太)とはよく喧嘩してましたよ。それが激しいのよね。普段はすごく「兄さん兄さん」て慕っているんだけど、母親のこととかで喧嘩になると、すごく激しいの。

鷲田》 兄弟だから出来るんでしょうけど。

村田》 それと母は(妹・芳子)3歳で父(新太郎)が亡くしているから、15歳上の兄(新太)が父親がわりっていう感じもあったんでしょうね。それで母親(とし)が死んだ時、どんな態度をとるのかなって、私興味があったの。そしたら、男だからワンワン泣く事はないんだけど、うつぶせて「ハーン」て言うのよ。なんて言うか、もう言葉にはならないって感じ。心の中にはスッゴイ思いがあるのだろうて感じました。

鷲田》 私はあんまり覚えていないけど。

村田》 それはそうでしょ。ムッチャン(睦子)が(葬儀の)全部をやらなきゃならないんだから。だって(母親は)99歳まで生きたのよ。子供(新太)が75歳よ! それでも99歳だから、悲しいお葬式じゃないけど、でも子供にとってはまた別よね。うまく言えないけど、苦労をかけた母親がとうとう亡くなって、万感の思いがあったという態度に見えたわ。

 
        〜 性格と趣味 〜
 
・・・・川端龍子(1885〜1966)とは深いお付き合いがあったと聞いていますが?
村田》 龍子先生(川端龍子)のことはよく話してましたよ。光陽会でリーダーになって、みんなを引っ張っていく事とか、心の掴み方とかも、龍子先生がお手本だって言ってましたよ。
鷲田》 龍子先生が言った言葉で私が覚えているのが「お前(新太)は会社の社長になったら凄いわ、引き出しをたくさん持っている、絵描きよりむいてる」て言われたって。
村田》 そういう話を倍おもしろく、おかしく話すのよね、伯父は。そんな話ひとつがすっごくおもしろくなるのよね。
鷲田》 だからでしょう。若い人たちにうけるんですよね、光陽会とかでも。
・・・・リーダーの素質でしょうか。
鷲田》 面倒見がいいんでしょうね。おっちょこちょいの処もあるんですけど。
・・・・人をやる気にさせるには、誉め上手というのがありますよね。
村田》 うーん、それともチョッと違うのよね。ズバッという事は言うし。痛烈に批判もしますよ。
鷲田》 でも「なんだ、こいつは!」とは思われないのよね。それが持ち味。
村田》 綺麗事をいう訳でもないし。でもけっこう口が悪いっていうか、「一般にはこう言うけど、でも本当は違うんだ」ていう言い方をしていましたね。だから絵を描くと誰でもすぐ個展とかするじゃないですか。でも伯父は、お金もないからしかたなかったのもあるんですけど、でも「あんなこと(個展)やっても親戚の集まりのためにやるものになるって」言ってましたよね。
・・・・そういえばパリ時代に世話になったリベリア・ホテルのマダムを助ける請願書を、帰国してから日本の文化庁長官宛に出していますよね。なかなか出来ないことと思うのですが?
鷲田》 父が出した時は通りませんでしたけど、その後で通って。そんな感じで思いつくと、ワッと人を感動させて、自分では文章は書けるから「これで、ええな!」てチャチャて書いてね。
村田》 そういう時に人をまとめるのが上手なのよね。その時は心底自分ではそうだって思い込んじゃうのよね。
鷲田》 人に相談しないでね、一人でやっちゃうのよ。
村田》 そう、だからみんなを巻き込む力が出てくるの。彼があんなにも思っているのだから、それじゃあ協力しよう、となる。だからって物の見方が甘いという訳でもなくて。
・・・・うーん、ずんぶんと出来た人ですね。
村田》 不思議だったわね。
鷲田》 あと、ぜいたくは一切しなくてね。背広なんかでももらったものばっかりで、買うことは絶対しない。パリでのステッキ持って、ダブルの上着を着ている写真ありますよね。あれだって貰いものでね。
村田》 それが結構似合うのよね。顔がハンサムでもなくてね。あれ側で見たらヨレヨレなのよ。
鷲田》 チャーミングなキャラクターでしたよね。自分では芸能人になりたいって言ってましたよ。新劇の俳優になりたいって。だから文章も書いていて、でもその時の集中力は大変なものだったんですよ。あと本をよく読みましたね。読み耽るって感じに。
・・・・どんなものが好きでしたか?
鷲田》 案外、哲学が好きでしたね。何度も読み直したりしてね。好きな言葉をノートに抜き書きしてね。あと詩集が好きでしたね。中原中也(1907〜1937)とか。あと大佛次郎(1897〜1973)の「帰郷」とか新聞に連載されたのを切り抜いて持っていましたね。
村田》 小説というと高尚な文学というものより、通俗的というかね。
鷲田》 特に「帰郷」の主人公が好きでね。
村田》 パリでは持っていったものか、送って貰わなければ新しいのは読めないじゃないですか。新聞でも雑誌でも。だから繰り返し読んでね、読み耽っていましたよ。
 
      〜 パリ時代の思い出 〜
 
・・・・鷲田先生は73歳の時に約10ケ月間、パリにいらっしゃいましたね。その間、鷲田さんも村田さんも、あと画家の高橋敬さんも一緒に、数か月ごいっしょされて、4人のパリ生活は如何でしたか?
鷲田、村田》 (口を揃えて)おもしろかったわ!
村田》 日本人が少なかったわ。今と違ってね。
鷲田》 もう30年近く前になるのよね。その後からワッと行き始めたのよね。あの時分は旅費も安いことなかったし。
村田》 向こうではたくさんの人が訪ねてきてね。元々、吸引力のある人だったから。
・・・・光陽会で代表をなさっていたことからも想像できますね。
村田》 水彩画家の春日部たすく(1903〜1985)さんとかも訪ねてきて、すっごく真面目な顔して「今までどうやって食べてきたんですか?」て聞かれて、それが凄くおもしろかったのよ。不思議だったんでしょうね。春日部さんも一応、どうにかこうにか水彩画家として食べてきた訳でしょうからね。アサヒギャラリ(美術雑誌)にも伯父(新太)の記事とかが載っていたから、気になったんでしょうね。
鷲田》 絵画ブームがあったから(資金的に)パリに行けたような状態でしたからね。
村田》 あとおもしろかったのが、何枚か絵の数がまとまったらフジヰ画廊(新太との契約画廊)へ送るのですが、私は航空便で送ればいいと思うんですけど、そこがケチっていうのか、船便なんですよね。そのくせ「心配だ、心配だ」て言うんですよ。もしかしたら途中で盗まれちゃったりしても、分からないわよね。……あと、むこうでは知り合いとかが来れば、ルーブル美術館とか案内しましたが、伯父にとって、それはどうでもいいんですよ。あそこへ行くと(西洋の)伝統の深さを感じて「もうかなわない」て思っちゃて。
鷲田》 そう「世界的な油絵には(所詮)太刀打ちできない。だからぼくは東洋の油絵をやるんだ」て言っていましたね。そして最後は水墨画をしてましたね。
・・・・日本人としての油絵ですね。
村田》 ただミレーは好きでしたね。あの真摯さは。鷲田》 やはり、農耕というところで、自分が農家出身だから興味があったんでしょうね。ただ自分ではあんな絵は描けませんでしたけど。
村田》 ミレーて、みんなが持ち上げてセンチメンタルなように受けとめられているけど、でも本物を見るとあの真摯さは「もう、しょうがない」なって気になりますよね。私たちがルーブルへ行った時も、先ず「俺の厳選したものを見せてやる」と言って連れていったのが、ミレーとダ・ビンチのデッサン。あと印象派美術館のセザンヌでしたね。
鷲田》 だってルーブルの監視の人って、日本人を見ると「3階に行け、行け」て言うでしょ。ミレーの絵を見に来たと思って。……それから、印象にあるのが、父がルクサンブルク公園でスケッチしてたら、フランス人の子供が寄ってくるの。それを見て「パリの子供って、日本の子供が退いちゃうのと違って、(絵を描いている人に)寄ってくるからさすがだね、小さい時から見てるから違うんだな」て父が言ったのを覚えています。それである日、ルーブルへ行ったら、子供たちが先生について説明を受けててね。それもまた小学生よね。今になって、やっと日本もやっていますね。
・・・・パリでは風景だけでなく俑も描いていたとか?
村田》 俑は日本にいる頃から描いていました。でも、最初は埴輪も好きでね。埴輪も描きたかったんですけど、その内に俑に巡り合ってね。
・・・・実物はどこかでご覧になったのでしょうか。
鷲田》 早稲田の博物館に何点かありましたが、まだ日本にはほとんどなくて、あっても個人がお持ちでしたから分からないのね。
村田》 でも本当は写真で感動して描き初めて、実物を見たのは実は後なのよね。伯父(新太)は4月からパリに行きましたけど、行ってすぐに中国展がパリであって、それで俑の本物をたくさん見てね。伯父は葉っぱのある風景は描けないから、私たちが9月にパリに行った時にも、俑ばっかり描いていましたね。少しして、やっと枯葉が落ちて風景が描けてね。だから葉が「早よう、落ちんかな、早よう、落ちんかな」て「女中に聞いてくれ」て。そうしたら女中さんが「大丈夫だよ、霜が落ちたら、ある日、急に落ちるから」て。日本と違って緯度が高いから除々にではなくて、バッと(一気に)落ちましたね。
・・・・パリで写生に行っていた所は?
鷲田》 ゴッホのオーベルの村とか、ずっと訪ねたいと思っていた所とか。あと佐伯祐三の行っていた所とかは番地を調べて行ってましたよ。
村田》 シャルトルはつまらなかったわ。
鷲田》 そう、父(新太)も絵にならないと言ってました。
・・・・他に旅行は?
村田》 フランス国内の小旅行だけでしたね。外国(フランス国外)へは体力が保たないからって行かなかったわ。
鷲田》 一度だけイタリアのベニスに行っただけね。私も、ついていってけど。
村田》 それはね、すごくストイックに絵(を描く)の為に体力を残すんだっていう気持ちからね。
鷲田》 でも行く前にパリの色々な本を読んでいたから、パリのどこへ行ってもすぐ構図が捕まえられたって言ってましたよ。日本だったら、構図を捕まえるのが難しいけど。
・・・・(パリへは)若い頃に一度行こうとしていたから、思いは一入だったでしょうね。
 
     〜 技法、そして生きざま 〜
 
鷲田》 あと、パリの風景を描いた時、何となく(全体に)黄土色ぽくなっている感じがあるじゃないですか。白内障がそんな色に濁ってきていたんですって。だから自分には本当にそう見えていたんですって。普通(の白内障)はグレーぽい、らしいんですけど。だから白内障が治ってからは、いつも色のついた眼鏡をかけていました。光が入りすぎて(見ているものが)ハレーション起こすんですって。夏の日差しと同じように。
村田》 あと(治ってからは)輪郭もハッキリしてきたわよね。俑でも壁でも、チョッとボケてた方がよかったんだけど。自分では見えてるように描いているだけなんですけどね。
・・・・鷲田先生の場合は筆の勢いで描くタイプですよね。だから出来不出来に波がある、というか。
村田》 それはありますよね。その題材を自分なりに感動を持って描くのだけど、それが完成するまでには何作も失敗がありますよね。
鷲田》 特殊な筆を見付けたのがよかったみたい。日本画用の筆。でも面相筆でもなくて、もっと長い穂先のもの。それを何本か束ねて使っていました。でもそれは筆先しか売ってなくて、お箸につけて使ってました。あと紙にも拘っていたようです。自分で必ず買いに行っていたし。
・・・・その筆をけっこう荒く使っていますよね。
村田》 手は早いですよ。朝早くスケッチに行って昼には帰って来る。2時間くらいの内に何枚っていうくらい仕上がってしまいます。「感動のまま、描く」という感じですよね。失敗作になってしまえばもう駄目。勢いで描けたものでなければ、何枚描き直しても、もう駄目。
鷲田》 だから父(新太)は「同じものは2枚は描けない」て言っていましたよ。もう「2枚目の時には感動が無くなっているから」て。またうまく描こうとしたのも駄目だって。
・・・・筆が止まってしまうんでしょうね。
村田》 そう、心が動くもの、一般的に言うきれいなものではなくて。たまにスケッチに一緒に行くと分かりましたよ、きたない壁とか、禿げたトタン屋根とかに、ハッと目が止まるのが分かりました。
鷲田》 だからもう少し早くパリに行っていたなら、まだパリの街を白く洗う前だったろうって、それが「残念だった」て言ってました。
村田》 だからわざわざ、まだ汚いのが残っている所を探しに行ったりして。モンパルナスの奥の方とか。あとよく言っていたことで「感動が無くなっても、生き長らえて描いているような画家にはなりたくない」という気持ちがすごく強い人でしたね。いつかは感動が無くなってしまうのではないか、という恐怖感を持っていた人でしたね。
鷲田》 龍子先生の最後を知っているからこそ、余計そう思ったのでしょうね。「最後は京都へ行って、みんなの知らない所で死にたい」て言ってましたね。「おれは病院に長くいてみんなに迷惑かけたくない」とも。そのとおりポックリ逝っちゃったんですけど。
・・・・本日はありがとうございました。
 
                 (文責:岡)

 

 

 

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