小此木 美代子
鷲田新太の晩年には、おびただしい量の「俑」が描かれている。それはいかにも彼らしい心象風景の表出と、おもえてならない。同時に数多くの手記もまた、多量に秘蔵されてきた。そのなかより鷲田新太に内在したものを知る一片の手がかりをみつけられたらとおもう。長年保管に努められたご遺族の厚情を受け、この手記を紐ときたい。
『或る朝、一匹の蟻のわが焚火に飛び込めり 咄嗟に 助け出さんとせしも及ばずして休みぬ。汝がさだめ 拙なきに哭け 朝の露』
これは、1977年に亡くなる鷲田新太が、その数カ月前に詠んだ色紙にのこされた一句である。末尾には、「1977年9月14日鷲田新太」と記され、落印が施され てある。
次女の睦子氏、姪の村田ひとみ氏をおたずねした折におふたり曰く「これはきっと、庭先で葡萄の葉を墨で描いていたのだけれど、おもうように筆が走らず、焚いていた火の中に放ってしまおうとしたその時、ちょうど出くわした光景ではないか。あんまり印象深かったので傍にあった描きかけの色紙の裏に書きとめたのでしょう。」と。
その日から数日がたち、この一句がこの一枚だけに書かれたものでないことを私は知ることになった。睦子氏が多くの手記とともに、もう一枚のこの蟻の風景を書き留めた色紙を送ってくださったのだ。お訊ねすると、お姉さんのところにも同じものがあるとのこと。ここに彼自らがいう運命的な原風景をみた思いを強くした。鷲田新太77歳の秋、蟻のいたひと時にこれほどまでに執着する彼の心の内はどのようなものであったのだろうか。
これは、ある一匹の蟻のはかない運命を目のあたりにした彼の感動で、同時にひどく悲しんでもいるのだろうと想像してみる。運命に従うかの死は静かで美しい。死そのものに特別性をもたない。人間の鷲田は、そこにたまたま居合わせた。
ある秋の日に、庭先の落葉をよせ、我が枯葉に火を投ず。ふと、ただ一匹の蟻がその焚火に飛び込んだ。朝つゆがぽたりと一滴落下するように、なんのまよいも覚悟もない。それはそれは自然の重力のままに、おちた。この一つの生命の断つ光景は、火に暖められた彼の体をひとすじ、つめたく澄んだ朝つゆの落下速度のごとくに貫いたのだろうか。「咄嗟に助け出さんとせしも及ばずして休みぬ」とある。いくら気持ちばかりはあれど、なんにもすることが出来ない。それが、自分が焚いた焚火であろうとも「汝のさだめ」に、かなうものがあろう筈がないと心伏せ、納得している。・・・・なんと美しい句であろうか。
一つの生命が存在し、そして生は死への移行であり、やがて断たれる。そのはかなさを今こそ鷲田はここに見た。必死に刻印すべく筆を握るのである。そこはかとなくたんたんとした一句からにじみ出るものは、彼のかなしくも悟ったかの虚無的な思想の到達点にも感じられ、「俑」の絵画から受ける余情と似て、たいへん興味深い一風景におもえる。
さかのぼり、26歳の鷲田新太。一つ詩をあげたい。『晩秋の夜の風鈴の音』
寝られないので目を閉ぢた侭じっと耳をすましている軒端に吊したある風鈴が淋しい音をたてています
みぞれ降る夜 ***がたたく淋しいあの鐘の音を 想わす様な物悲しい そうしてよく澄んだ音です 夏の頃 ひるねの眠りを心地よくいざなってくれた この風鈴を秋になって捨ててかえり見なかった私に 怨み言を言っているのでしょう ほんの少しつつ又 音をたてている そうしてこの音が此の頃の私です 1926年11月11日夜
これは、『庚申薔薇』と名付けたノートに書き付けた一つである。その名のごとく夜にだけ書かれたしるしとして日付と深夜の時刻がほとんどの文末に記されてある。喀血した年のこのノートには、彼の告白めいた孤独感が漂っている。この詩にしても、なくような季節はずれの風鈴に、自分の若くして消えるかもしれない生命の音を重ねあわせ、冷え冷えとしたその音に鼓膜をじっと凝らしている。・・・・一つのモノ「風鈴」を愛らしい生きもののように擬人化し、「音」に自分をかいまみる病の鷲田がいる。また、同じ『庚申薔薇』のノート中には、「深いぐんぐんと掘り下げたもの、見ていて涙ぐましくなるもの、そんなものが描きたい」という一文をみつける。あまりにも漠然とはしているものの、俑に魅せられる晩年の鷲田新太を既に暗示させているようにもおもえる。
当時、何度も開きは閉じ読み返し、線を引き○をつけ、また書きとめ、折り返した手になじんだ感触をそのままにのこっている。1953年のこの手帳には、仏典から、哲学、小説の一節、新聞の切り抜き、俳句、詩、または、ちゃんこなべのつくり方、自家製栄養ドリンクの調合方法などまで彼の興味の全てがぎっしり詰まっている。その多くは、哲学書の抜き書きだ。例えば、「実存哲学」についての抜粋は、こうである。
実存はドイツ語のエクシテンツ「存在」といふ意味 語源は「外に立つ」即ち存在とは「外に立つこと」 「外に脱け出ること」を意味する
人間の人間たる所以は彼がたえず自分自身を脱け出 てその外にでるといふ所に存する
こうして読んでくると、彼が俑に出会った初めが、百科事典の図版だったのにもかかわらず、見過ごしてしまってもよかった一頁を捉えた精神が微かに見え隠れする。自身で手帳の中に抜粋してある美術評論家の故・河北倫明氏のことばにも依るように、「日本の場合は、もともと情趣的といふか本当は常に物をある感想を以て見ている。物を描きながら実は感想を述べていることがある。心の要素と物の要素が事実上いつも交錯している。(中略)日本人のセンスはその交錯をそのまま柔軟に掬い上げるところに特長があったし、今日も同様である。」というような感性を持ち合わせていたひとりの日本人であったことから生まれているだろうとおもう。
永年にわたる手記にみられるような、自己の内面空間をあたためてきた鷲田新太。彼の俑との出会いは、一種運命的なものであったとおもわれる。
彼の描いた俑の絵画をみるとき、それは「俑」自身の美しさを越え、副葬品の俑を抜け出して、その内部から沸き起こる存在にうたれているのではないか。この抽象的な感覚を、鷲田自身が俑の実在感から受けている感想的な絵画をとおして、わたしたちはより真に迫った「実在感」そのものを感じているようにもおもえる。
晩年、あるインタビューに答えて「要するに自分をも含めた人の世のはかなさ、喜怒哀楽に心ひかれる」と言う鷲田。蟻の果ない死の残像と、永遠にその存在を地面下にただよわせる俑、どちらもその運命に身を委ねている。いつかの鷲田が風鈴に、ある日の心情を吐露したように、晩年の彼の絵画上での表現は常に一つのモノを軸とし、それを手がかりにして運命的な存在意識が描かれているようにみえる。その悲しくもはかない残像と存在感を鷲田新太は、絵画から立ち上がらせたかったのではないだろうか。
彼が何度も蟻の句を書きとめたこと。それは、生あるものが断たれるはかなさ、その存在が消えることの軽さを絵画上に表出できないであろう有限を、醒めた眼で凝視していた一瞬であった気がしてならない。
こうした鷲田新太の取材のためにある冬の昼下がり、ご遺族のもとにお邪魔した。その日は暗くなるまで鷲田新太の思い出話をおもしろおかしく、熱く語ってくれた。私は、この日の暖かさを不思議と未だ忘れられないでいる。彼が遺したものは、こんな余韻を与えてくれる人を今、ここに遺してくれたことでもあるのだな。と思えた。なにかそれが、「鷲田新太の芸術」と言ってもよいのではないかとさえ思えてくる。彼があの蟻の死をみた心の風景は、あれから何十年経った今でも、思いをめぐらすことが出来る。
そして今、彼の遺した多様な足跡に共感を覚えるのは、私たちもまた風景やモノの中に自己をみる習慣があるためかもしれない。
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