人生を生き描き切った修羅の画家
文・水波 博
今を去る81年前、1919年(大正8年)の春撮影した旧制・豊岡中学校の卒業写真がある。人生の一つの節目、社会に巣立つ記念すべきセレモニーの場。前から三列目あたり、たった一人、左向きに写った顔がある。後年の鷲田新太、本名・新一青年である。それはシャッターのおりる瞬間、誤って横を向いたていのものではない、体ごとカメラに対して左向きに立っているからだ。
集団の中に在って、不逞にも独り吾れ関せず焉として立っている、いな立つことのできた稀有の人物。これこそ鷲田新一が、自からの生涯と芸術を予告した象徴的事件として、私に写る。
さて、1976年(昭和51年)初夏の頃。親父のように慕い、私も同人だったグループ“墨洋会展”の中心メンバー中村忠二さん(昭和50年77歳で急逝)の遺作展が、神戸の兵庫県立美術館で開催決定。伴夫人の依頼で和紙に描かれた水墨画とモノタイプ作品の裏打ち作業に追われていたある日、世話人のO氏が、これは自分の関係する画家の作品だが見てほしい、紙に描いたものだから、裏打ちをしたほうが良いのでは、と云いながら、一見油絵風な作品数点を目の前に広げた。
図らずもこれが鷲田作品との私の初めての出合いであった。亡き忠二さんの霊が、結びの縁だったのかとおもう。漆黒の背景に浮びあがる唐俑の、深くして優艶、清楚。えもいえぬエスプリ(風韻・英知)に満ちた不思議な画面に、一瞬私ははっとして掴まり、しばし絵の虜となった。いまどきこれほどに東洋の古典につながり、芸術の真髄をきわめたような表現に到達した画人があったのか、というおもいで……。
それに今一つ、私が目を見張ったわけがある。戦後に絵の道に就き、油絵を始めた私は、一時期、紙を使い、水彩絵具を卵でとくテンペラ画を好み、大小いろいろ描いた経験があるが、目の前の鷲田作品は、そのマチエールにそっくりだったからだ。
聞けば、画家の名は鷲田新太さん。初めて知る名前だが、すぐ近くの国分寺に在住という。私は間もなく鷲田さん宅を尋ね、多くの作品に接して益々感銘。併せて深い造詣、歯に衣着せぬ率直な物云いや識見に、限りない人間的魅力も覚え、親交を結ぶこととなる。
当時画家は、私より二回り上の75歳。二年前には渡佛10か月間で 300点を超えるパリ風景も制作。代表作の多くを完成し、悟りを開いた禅者の境涯に在るかにみえた。
処がである、ひとときも己れに停滞を許さない鷲田さんは、次なる制作、風神、雷神や仏画など日本の古典を貫流する遥かなテーマを構想し、筆を染めつつあったのだ。
未完の絶筆《雷神》は、その証しであるが、ここでは顔を真正面に向け、鐘を打つ、痛ましくも壮烈な自画像ともなっているのを、人は見るだろう。
1978年(昭和53年)二月の日本橋・高島屋展は、前年秋すべて鷲田さんの手で準備は終わり、会期を待つのみという年末に、不意の大動脈破裂で急逝、遂に遺作展となった。
出品作は、私の手で裏打ちをした。いろいろな厚紙や画用紙が使われていたので、一枚一枚作品を吟味しながら、強靭な和紙を使い、本紙(作品)の裏へ紙目のタテ、ヨコを交互に二重に打って乾かしたあと、厚い合板に貼りこんで仕上げたのである。
そのさい本紙に湿りをいれ十分に伸ばす作業を行なうが、どういう油か、艶出しが画面にかけてあって容易に伸びない、かなり長時間を要した覚えがある。
しかしこの裏打ちによって、内部に塗りこめられていた諸々の顔料が、表側に反映というか微妙に影響して、作品は一段と幽玄、神秘の表情を増した。薄い水墨和紙なら判るが、こんな部厚い紙でも、こういう裏打ち効果があるのかと、私自身驚くとともに、鷲田さんも大いに満足、よしとしたのである。
ところで、鷲田作品はグワッシュによると云われてきたが、果してどうか。数多くの裏打ちをしてきて、また鷲田さんを知れば知るほど、単純なものではないと云うのが、私の感想である。絵具のことを含めて、技法というものは、夫々の作家の歩んだ道程や人間形成、その哲学にまでかかわる根本問題で、解くことのできない秘密と考えてきた私は、鷲田さんとの対話で、生前一度もそれを話題にしたことはなく、いま未練に思うこともない。
しかし、現代美術のなかで、異色の光茫を放ち、底光りのする鷲田作品の據って以ってきたる処は何なのか、画背に宿る奥行きを訊ねながら、考えてみることとしたい。
日本海に面す山陰・但馬のきびしい風土と環境のなかで過した多感な中学時代。二年生のとき、偶々一年上に関西中学を放校になり転校してきた今東光がある。若くして放蕩無頼の輩と目されていたが、実は愛すべきこの美少年から油絵の洗礼を受け、美術に開眼。
1924年(大正13年)郷里滋賀を出奔するように上京し油絵を開始。だが当時の画学生の多くがそうであったように、団体展入選という狭い了見と、閉ざされた美術の世界での悪戦苦闘で、空しい成果に終始する。
やがて結婚、長女出産など家庭的にも社会的にも、否応もなく押し寄せる現実の荒波に晒されて人生の関頭に立ったとき、明敏にも鷲田さんは、これまでの槐多や繁、正二など夭折の天才に憧がれた過去を、きっぱり葬って、ヒューマンな人間世界へ船出することを決意する。
この時期の五年間の歩みと、心の葛藤を回顧、記録した『鷲田一太古史ノート』という記念すべき一巻が残っている。数百頁、何十万字に及ぶ尨大なメモで、純粋にして赤裸々な自己告白でもあるが、そのノートに、注目される次の一文がある。
A推古佛の荘重、静寂。その恐るべき大きな力を、 如何におのが仕事の上に用うるか。
続けて「墨を使っての一道こそ、吾人の進むべき道で、それは西欧人のよくなしうる処ではない」と断言し「天才とは要するに努力の結晶なりと痛感する」と結ぶ。
絵を始めて10年、鷲田さんはこう宣言して、己れの進むべき道を見きわめると共に、芸術は自分の命で、時間をかけ、生涯をかけて実現すべきものなることを覚悟したのだ。
以後、長い戦争と、続く敗戦後の暗い時代、様々の職を遍歴、運命に耐えた。1950年代半ば定年を迎えるや、本格的に画筆を握る。先ず水彩画から始った。数十年間、修羅場で鍛えられた人間の力と知恵がいよいよ物をいう。画鬼となった鷲田さんの、死を堵したような制作が展開される。
そのとき、かつて師父と仰いだ日本画家・川端龍子の許での見聞と学習。また美術記者時代、著名な日本画家を多く取材、知悉していた日本画法が頭に蘇える。日本の気候・風土にも相応わしく、且つ自分の得意とする線描を活かすにはどうしたら一番いいか、と考えた結論が、あの画法だったであろう。剛健な紙に、先ず膠でといた絵具をしっかり下塗りする。モチーフに合い、自分にも気に入るバックになるまで、塗ったり洗ったりして画面を創る仕事をした上で、グワッシュで一気に描画、細部にこだわらず単刀直入、対象に切りこみ美の本質を抉り出した。若き日、宣言した東洋水墨画の貫徹である。
だが、まだそれだけで我慢できないところに鷲田さんの油絵の教養がある。油彩に引けをとらない光沢や艶を出すため、特殊な油をかけて完成させ、西欧迄とりこんだのだ。
私にとって掘れば掘るほど深い鉱脈、広い裾野をもつ鷲田芸術。清貧と無名をものともしないで、ひたすら自己の道を生き抜いた明治人。”皮を剥いで紙を、骨を削って筆に、そして血を以って墨となせ”と獅子吼した日蓮の言葉が思いあわされて……。
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