大川 栄二
少年期から画家を志し、16才より油彩を描き始め乍らも初個展が何んと晩年の71才であったと云うのを知ったのは、確か昭和64年頃だったと思う。その時、鷲田新太の名前すら全く知らぬ私が、銀座・兜屋画廊で初めて買入れた20号大のグワッシュ《街角(都会)》(cut.no. 31)。その静謐素朴な詩情の虜にされ、その作家への限りなき興味胎生の出合いだった。
早速に調査した美術雑誌によれば、昭和47年当時は戦後2回目の絵画ブームであり、彼のその躍動と幽玄の相反する不思議なコントラストの画趣に美術業界は驚かされていた。そして「遅れて来た空前絶後の新人」として画壇に彗星の如く登場し、加うるに不透明水彩であるグワッシュで油彩以上のタブロー化を試みる新技法を駆使して居たことも喧伝され、一躍著名画家の仲間入りをしたのであった。だが、渡仏時代を含め、それから僅か数年を待たずに大動脈破裂で急逝され、美術評論家・田辺憲三氏をして、「再び現れることのない奇蹟の作家」とまで惜しまれた異才であったことを、初めて識ったのである。
其後ご遺族の厚意で約 200点に及ぶタブロー遺作品を拝見せる結果、その作品の存在感に目を瞠り胸が詰まるような数時間を持った。特に鷲田が自ら私淑し続けたと言われる佐伯祐三の激しいフォーブ調の筆致に似てはいるものの、若さの余りに衝動的感情により夢の如く昇華した佐伯芸術とは一味違い、また老化とは明らかに異なる豊かな人生体験による厳しい現実を踏まえたロマンが昇華した鷲田絵画と覚えるのであった。更に態々パリに行き乍ら滞在一年の1/2を埋める程魅了された古代中国発掘品パリ展で、幽美な唐俑、騎馬俑を描き続けた「剥落美にみる無限の妖しき美しさ」を見事に再現した筆致には、他にその類を知らずただただ恐れ入ったのであった。
だが、このような異才が何故、今日の美術市場で埋没同様に扱われているのかが、往年の絵キチ・コレクターの一人の私としても淋しい限りだが、推断では新技術のこの特殊なグワッシュを水彩画の一種とされ、芸術性は二の次の日本独特の低廉なカテゴリーとして目先の利益しか考えぬ取扱画商の質による為かと思う。何れにせよ市値云々に関係なく、これだけの作品の再評価も当美術館の重要な使命でありと考え、学芸と慎重検討の上、前向きに当企画展実施に踏切ったのである。何卒ご期待下さい。
末筆乍ら今展開催に際し、ご遺族の亡父顕彰への温かい無償の愛に接した喜びと共に、望外極まりなき諸々のご協力に対し深く感謝致す次第です。
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