「音楽は音のある絵・絵は音のない音楽」で同じものだとは欧米の常識。だが日本人の多くは同じ曲を何度でも聴きに行くが名画は何度でも視に行かないのは何だろう。当館は一応の収蔵品を持つだけに欧米美術館並に常設展だけで運営したいのだが日本人は同じ絵を二度視ない悪い習性があり、だから絵の真髄である「内面の美」が判らず、絵画鑑賞力は国際的に低級とされているが、目先どうにもならない。従って常設美術館を志向し乍らも一部で企画展との常時併催を余儀なくされている当館ではあるが、何とかオープン11年経過し細やかな企画展だが既に45回に及ぶが個人コレクション展は、第26回K.T.コレクション以来、今回が三度目である。
「絵は人格」とする唯我独尊的な絵画哲学を土壌とせる私だけに、コレクションも良かれ悪かれコレクターの人柄を示すものであるべきと思い、更にまた「絵は持つ人により値打ちが違う」と謂う含蓄ある言葉も浮上する。先に開催せるK.T.コレクション展は武田光司氏の個性が滲み出るような「生きている画家」の名題よろしく異色の画家や埋もれている画家発掘の興味を醸した素晴らしい展観となったが、今回の松本コレクションはそれと違い個性的というよりは全く生活色彩以外何もない無欲のコレクションであり、自然に胎生せる松本夫妻ピューリタン人生の軌跡の一つなのです。即ちコレクター等という烏滸がましい考えなど毛頭無く幸いにも一応の資産家だったので単に生活のインテリアとして日本画/洋画、有名/無名、高価/低廉、等々に全く関係なく好きなもののみ買い続けた40年間のいつの間にかの集積で玉石混淆の「豊かな生活の中の美術」である。だが、松本夫妻の敬虔なクリスチャンとしての清らかなこころとあく迄も音楽を愛し、花を愛した共に「ネアカ」のご性格が示すように一貫して清潔にして華美と謂う相反するコントラストを自然と共有する作品群となって居り、あれだけの事業の創業者ならではの厳しい労苦の洗剤となったのだろう。特に重文級ともいえる超一級品の数々と二足三文の庶民作品とが差別無く取り扱われているのが見事である。また、総てがステイタスや価格でなくその精神性に準じている松本夫妻の私生活そのもので正に「平凡にして稀有なコレクション」となっている。
然るに、この300点に及ぶ絵画遺産をご遺族が亡きご両親の喜ばれる処に収めるとして国公立の大美術館でなく一地方の小さな私立美術館である当館にその総てをご寄付戴いたることは当館にとり夢にも考えて居らぬことであり、昨年の天皇・皇后行幸啓と云う望外の大慶事に続く連続の神風であります。従って私立美術館であるからこそ出来る立場で日本の美術館らしい美術館では初めてのユニーク極まり無きこの豊かな生活コレクション展開催の意義あるリスクを勇んで享受するものであります。亡き松本夫妻のご遺志は云うに及ばず、ご遺族一同の真にプリミティブな浄心に対する感謝の気持ちは言葉にする事は出来ぬ重さにて、ただただ至上の感謝の祈りと当コレクションの恒久的活用への腐心とを永遠の十字架とすることを誓うものです。