財団法人 大川美術館     OKAWA MUSEUM of ART, KIRYU

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松本 望・千代 夫妻 概論
(1905〜1988)(1908〜1998)
                  大川 栄二
 
 松本望は1905年(明治38)貧乏牧師松本勇治の次男として神戸に生まれ、松本千代は1908年(明治41)ロ−ソク商である谷山茂三郎氏の長女として京都に生まれた三才違いの夫婦である。
 望は中学一年で中退、十四才で、文房具店に丁稚奉公に出て以来輸入楽器商、洋家具店等を転々し其間ピアノ調律士無線技師修行をものにし、1928年(昭和3)二十三才で既に谷山商店で一端の電気修理技を身につけた二十才の千代と恋愛で結ばれ、父の主宰せる神戸畑原教会で結婚式をあげた。そしてロ−ソクから電器商に脱皮しつつある谷山商店の大阪支店を譲り受け、平和希望堂(ラジオ商)として独立したが正に昭和初期変革の揺籃期のラジオ時代だけに今で謂うベンチャ−事業だが、ウォ−ル街大暴落の世界不況に伴う国内不況に翻弄されたか敢えて1937年(昭和12)福音電気製作所の名前で先ずは単身東京進出した。
 名前はいいが、スピ−カ−の修理屋でしかなく連日コイル巻作業である。だが鳴らないものが鳴り出す死んだのが生き還えるので、新品の五割位の修理代となり正に図に当り、早速家族を呼び全員協力でパイオニア鰍フ小さな橋頭堡が出来たのである。
 この時までの生活の中で厳しくも温かいを話を二つ紹介しよう。1934年(昭和9)、平和希望堂を閉鎖した浪人時代に、千代夫人が夜の食べ物の思案をしながらどしゃぶり雨の中を歩いていると、一人の老婆より切手を賣る店を尋ねられた際、その店が遠いのでたまたま自分のうちに使い余りの切手ありを思い出し三銭切手を四、五枚渡して十二〜十五銭を受取り、やっと夜のこんにゃくとあげ豆腐が買えた家族六人の生活で今でも時々この夢をみると夫人が語っている。また望が単身東京進出直後の家族への文通に「明日からお得意まわりをします。ただ廻ってくるだけでは何にもなりません、一件に二十銭、三十銭の実収をあげなければと思うと今迄考えたことのない苦労が身にしみます。しかし空想に近い理想よりもこの事実が理想に近いものを生み出すだろうと信じます。望より」 ……………………
 
 
 ただ松本望を語ることは、父勇治を語らずして何もないと自ら語っている。即ち松本勇治は栃木の片柳家に生まれたが本家の松本に子供がないので養子となり函館商業卒業後貿易商を夢みて渡米したが、ポ−トランドの日本人教会でじっこんになった熱烈なクリスチャン松岡洋右(後の外務大臣)の強い影響を受け生来の真面目さから聖書に没入し、遂に貿易研究を捨てて一週間働き一ヶ月伝導するという敬虔極まり無き伝導生活を何んと六年間も続けて仕舞い−其間の諸々の神の子の如きエピソ−ドは省略するが−日本帰国後立派な貿易マンを期待していた養父より「ヤソバカ」として即座に勘当されたのである。だがそれでも栃木に留まり故里近辺の伝導に奔命していたが、当時桐生町の信者で旗本の流れで役場の書記をしていた菊池の娘ケイを見染め結婚生活二日目には桐生町から足利町へ20q徒歩の旅が伝導の新婚旅行だったのである。
 この様だから一ヶ月後には早や食べ物が無く、まる四日の間水だけの伝導を続けたというがこの嘘のようなひたすら神を信じ切った両親の信念や生活態度が、望・千代夫婦に正しく受け継がれたように見えると、松本望著・自叙伝「回顧と前進」に記されているのである。
 
 遺憾乍らどうにも隠せぬ私事で恐縮なのですが、この松本勇治の実妹「トヨ」が私の生母であり更に勇治夫人である「ケイ」の実家が桐生だと考え合わせた時にこの不測の縷みが生んだとすら考えられる此度の望外極まり無くも有難い松本コレクション桐生回帰は、筆者は云うに及ばず相続人たる松本六兄妹も恐らく考えて居られぬかと推定され見えぬ糸で結ばれている神の摂理を感じ「震えるような思い」である。話は逆に引戻しますが、松本牧師はその後三十才半ばで神戸に移り身長 185pの大男が山高帽をかぶり伝導を始めましたが、これはあの賀川豊彦より七年前の明治三十五年でした。そして米人歯科医の助手となり一緒に伝導を続けたが聖書に忠実で一切の妥協を排していた故に、派閥で分かれている各信者達には全く組せず孤高に徹しただけに、広い範囲の信者が集まったようである。東大総長矢内原忠雄や内村鑑三高弟の黒崎幸吉は、松本の指導を受け共に松本の導きで洗礼を受けている史実からもその深さが想像される(矢内原忠雄伝、朝日ジャ−ナルより)。なお筆者自身も中学時代まで叔父として何度もお会いして居り長身モダ−ンな洋行帰りの脚長オジサンとしての温かさが不思議と肌に残って居り、特に勘当を受けた叔父に一番親しかった実妹として全国伝導の途中に必ず寄る兄を正にいそいそ幸せ一杯の明るい顔で接遇していた母の顔だけが強く印象に刻まれ、苦労続きの私の母の思い出には一番愉しい幻影です。又、脱線しましたお許し下さい。
 それで筆者がこの松本夫妻のことを記載した冊子「美のジャ−ナル」(形象社発行)と「ガス燈40号」抜粋の一文をここに重複さす手抜きを何卒ご海容下さい。
 
 
 知る人ぞ識る (冊子 美のジャ−ナルから)
 
 相田みつおの詩
     花は枝が支えている
     枝は幹が支えている
     幹は根が支えている
     根はみえねんだよな… 省略
 往昔から、「知る人ぞ識る」という言葉があり、筆者の好きな言だが、どうも昨今の時世は、この言葉が地に墜ちた錯覚すら感ずる。
 何れにせよ、この「知る人ぞ識る」という言葉ですぐ頭に浮かぶのはパイオニアの創業者松本望である。清貧な牧師の子に生まれ、全くの裸一貫で世界一のオ−ディオメ−カ−を創り上げた大偉業を果たしながら、虚像になること嫌い一貫してマスコミを避けた哲学は有名になることを嫌い自ら希望通り「知るひとぞ識る」に終始し得た八十三才の人生を去月十五日に了えた。そして坂田道太をして「稀にみる偉大な人」と惜別の辞を語らせた一生である。レ−ザ−ディスク売り出し不調の際に当時著名な石塚社長の心痛振りに対し「新製品を出すのに、こんなこと当然だ。なにをあわてる」と一喝し石塚を押さえた度量、更に往時パイオニアがソニ−を抜き日本一株価の業績を謳歌せる秋「君が社長でなかったら、もっと会社が良くなっていたかもしれぬ。マスコミに出るのはよいが、常に社員の代表であることを忘れぬよう」と一撃、あの石塚が小さくみえた光景を筆者はある立場で目撃している。当時華やかな財界風雲児石塚庸三の舞台裏の事実である。
 更に、常々秘かな寄付行為を継続して行い「漸く四季報大株主欄から名が消えたよ」とも語っていたが、ソニ−の井深大と親交あり、絶えず福祉や音感教育に腐心し学校法人松本学園、財団法人鑑賞教育振興会等々を設立し惜しみない浄財を注ぎ込まれた。とにかく事業者欲と仁が両立するいい話であり、こんな創業者もいたのである。−根はみえないんだよなあ−という冒頭の詩の一片が浮上する。
 
 
 松本千代氏を悼む (館報ガス燈40号から)
 
 卒寿を目前に控えての、正に人間的で静謐なるご昇天とはいえ、あの日長女眞也子さんよりの松本千代氏ご瞑目の電話は、私には突如として全身が凍結するような瞬間だった。千代氏は、当館にとってそんな人なのである。
 
 私の従兄であり、音と映像の世界でその頂点に挑戦し続けたパイオニア株式会社創業者・故松本望氏夫人と云うよりは、夫・望氏と一身同体の存在であり、二人して昭和12年に福音電気製作所の名でダイナミック・スピーカーのコイル巻や修理を始めてから、今日のパイオニアを創り上げた正に2個1(ニコイチ)のおしどり創業者である。共に敬虔なるクリスチャンであるだけに、一般創業者とは一味も二味も違う本物の前向きフィランソロピー活動家で、それが私の僭越に過ぎる公益私立美術館創業の土壌形成の主要な部分でもある。また、性格的に激情に溺れ易いテンパ気味の「業」を持つ私が、あの稀代の異色創業者・ダイエー株式会社・中内功氏の側近として約22年間も勤めあげられたのは、鎮静カプセルを常備薬の如く与えて下さったご両人のお陰でもあった。
 更に、結果的に蒐集して仕舞った趣味の絵画約 2,000点で、第2の人生を多少は厳しくとも優雅な余白ロマンで思い立ち、ご両人にご相談したが、絶えず冷厳な現実での社会事業、就中スポンサーのない私立美術館運営の至難さを絶えず警告して戴いたものである。併るに、美術館オープン2年目に全く何の前触れもなく(オープン直前に逝去された望氏の内意を踏まえてか)千代氏より正に望外な寄付金を頂戴したことは、ただただ「有難い」の一言以外何も云えぬ祈りである。そしてこのお金が超低金利による財団基金死に体に直面し加うるに、来館者激減に苦慮している昨今の有難いアローワンスとなっているのである。尚、千代夫人のお人柄は、まるで子供のようにプリミティブで明るく非常にお洒落な美しい人であった。それでいて内面は質素で、一流夫人になり、あの世田谷・岡本の大邸宅に住まわれ乍らも「大川さんが来るとかなわない、ビールをコップ一杯で残すから後で冷蔵庫から出して気の抜けたのを飲まねばならぬのでかなわないわ」と笑わせる、こんな素朴で愉しく、苦しい時代を忘れない人なのである。
 
 去る3月4日、オープン10年目のこの美の館に、天皇・皇后両陛下ご視察の行幸啓と云う正に望外の栄を受け、この宮内庁内達が、これを一番に喜んで戴ける千代氏ご昇天の僅か一週間後だったことが残念でたまらない。
 
 ”先づ、隣がよくならなければ、自分がよくならな  い ”
 ”寄附は、他人(ヒト)に知られたら価値がなくな  る ”
 
 筆者自身も直接聞かされているこのご両人の尊い教えと正にその行動は、私には仲々到達し得ぬ境地だが、こんな人との深い知遇を得た今日までの自分の生活に感謝し、これからの短い人生余白を何とか意義あるものにしたいものだ。
 だが、いま失ったこの空白はどうにもならず、ただご冥福を祈るのみである。
                     合掌
 
 現在パイオニア鰍ヘ音響から脱皮してレ−ザ−ディスク、カ−ステレオからD.V.D. レコーダー更にプラズマ・ディスプレイ等々へと絶えず一歩前進している「パイオニア」の名前そのものの世界の舞台へ戦いを挑んでいる。おそらく創業者松本夫妻のフィランソロピズムが源流に流れている限り「文化の論理と経営の論理」の一致を信じ、人間の英知が死なない限り洋々たる将来が約束される筈と信じたい。確かに江戸時代以降特に昨今の日本の時流は経済価値一辺倒で文明と文化を完全にコンデンスしてどん底に向っている枯れ川だが戦後五十年で日本人の社会的感性が完全に死ぬ筈はなく一時的に麻痺しているのであり、すぐ下に水路ありて役人や政治家ではなく庶民の一人一人が自ら一鍬を入れたらすぐにでも復活するのだが、一番易しいことが一番困難と謂う総てに通ずる真実を、先ずは不特定多数の多くが噛みしめてくれたらなあとつくづく嘆く昨今である。
 
 
 最後に当蒐集作品を通し絵画に対する筆者の耳に遺る松本ご夫妻の言葉の一つをあげれば!
 
 音楽に比し絵はさっぱり解らないが、部屋の空気が爽やかになるからな。とにかく理屈は聞かぬ方がよさそうだ。
 
 特に好んだ絵は 岸田劉生「少女の縄とび」
         加山又造「凍林」
          ブラック「楽譜」  他
                   望氏
 
 絵は難しいですが、世の中が益々世知辛いので明るい絵が好き芸術性なんかチンプンカンプンですが、よい作品は名前に拘らずあきないのね。花が好きだから花の絵が多いのよ。
 特に好んだ絵は 安田靱彦「花」
         三岸節子「花」
         岸田劉生「少女と縄とび」
         ルノア−ル「女」   他
                  千代氏
 
 
 なお松本コレクションの作品に関する学術的切口は、元来が生活の秘蔵コレクションだけに至難なものであり、筆者の朋友である市川政憲氏(東京国立近代美術館次長)に、ある切口の雑論でよいという条件で執筆を無理にお願いせるものである。ご協力深く感謝致します。
             (当館理事長兼館長)

 

 

 

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