財団法人 大川美術館     OKAWA MUSEUM of ART, KIRYU

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岡田節男の画業について
小此木 美代子

岡田節男がその生涯を水彩画一筋に生きたのは、蒼原会に集まった熱い眼差しを持つ人々との出会いにその源があるように思われる。この蒼原会とは、大正11年から昭和の前半にかけて、水彩画の革新と普及を全国的な規模でうながした、いわゆる新興水彩と呼ばれた運動である。水彩画の辿ってきた歴史に対し、中西利雄を始めとする一群の若き画家たちが結集した一つの時代があった。水彩画らしさにのみ安住しない絵画、真なるデッサンのもとに描かれる美しい水彩画をめざし、新しく芸術的な水彩画の普及活動がうねりをあげた。美術学校でアカデミックな教育を受けることなく、蒼原会人体部に入会する岡田。このとき19歳であった。上下の隔てのないこの奔放な環境に、大いに感化された青年期を過ごした。

 岡田節男の画業を顧みると、傾向としていくつかの時代に分けてみることができるようである。中西利雄に強い影響を受けた1930年代。1940年代から60年代にかけて、品川の舟着き場風景を始めとするアトリエ外の路地裏等、身辺の東京を描いた時代。1960年代後半から70年代後半の銀座・有楽町通りの街角風景から渋谷・上野駅前の雑踏に移行してゆき、やがて《朝の駅前風景》(cat.no.27)のシリーズを生み出した時代。1980年代から90年代の渋谷・原宿に集う若者のすがたを描いた時代、というように分けることができよう。

 この度、ご遺族のご厚情により、岡田節男のほぼ全作品を当館に預からせていただいた。夥しい量の作品群だが、そのほとんどが制作年を特定することが困難であった。何年か前に描いた場所を数年の後、再度描いたらしいと思わせるところもあり、制作年を特定する資料も以外に乏しい。この展覧会にあたりご遺族を始めとする方々の記憶に頼らざるを得ないところが大きかった。一水会、日本水彩画会展に出品した数点は目録等により特定することができたが、おおむね推測程度にとどめた。

 水彩画において、人体の動き、その量感質感、そして風景の躍動感を描き続けた岡田節男。60余年の画業の中で、模索し続けた彼なりの水彩画の新しい可能性を、モチーフを辿ることでみていきたい。多分に今後の課題が残るものだが、岡田節男の親しみやすい絵画に触れることで、私たちもまた水彩画の美しさとその可能性を見つめる機会となればと思う。

【品川風景まで】
 1914年、東京北品川。東海道五十三次一番目の宿場町。すぐそこには美しく穏やかな東京湾が開けている。岡田の家は長屋を貸していた。漁夫の家があり、歌舞伎の三味線を弾く人なども暮らしていた。目の前にある芸者の置屋からは、いつも三味線の音色が流れてきた。路地は極めて狭く2メートルにも満たない。通りを挟んで向かいの質屋に、5人兄妹の次男として岡田は生まれた。多感な少年期を宿場町特有の粋な空気と、趣味人の祖父を始めとする遊びごころ溢れた家族に囲まれて育った。この家は空襲にも震災にも焼けずに、一生岡田はここに暮らした。
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岡田節男アトリエ付近
この密集する粋な生活感が、彼の原風景ともいえるような気がする。そんな環境も手伝ってか、幼い頃より絵を描くことに興味を覚え、幼稚園の時に描いた汽車の絵はあまりにも上手く、大人を驚かせた、などというエピソードも残っている。

19歳で中西利雄、小山良修を中心とした蒼原会に入会。若き岡田は、中西利雄に強い影響をうける。特に街角風景にみられる、不透明なべた塗りの青色をみるとき、その色濃い影響を彷彿させられる。そんな中、兄妹が次々に結核で命を落とし、兄をもなくした岡田は否が応でも質屋を継がねばならず、自身の進むべき道を断念せねばならない少年時代を送ったと想像される。規子夫人の話によれば、結婚後は店の奥にアトリエ風な一角を構え、質屋の仕事の合間をぬっては、描いていたという。また、長女・恭子氏、次女陽子氏は、何でも受け入れられる、好奇心の塊のような人だったが、唯一嫌いなものはこの質屋の仕事ではなかったか。と語っている。しかしいつも鼻歌を歌って仕事をしていたという。そうやってどんな出来事をも、楽しい方向に変えていく柔軟さを持っていたという。

 1955年日本水彩画会賞を受賞した《品川風景》(cat.no.10)をはじめとする舟着場の風景は大作から小品まで実に様々に様相を変えて繰り返されている。また、同年代とおもわれる路地裏もまたよく描かれた。共に多くの色を配しながらも力強さがみなぎり、思い切った筆致によって描かれている。この頃は住まいの近く品川周辺を好んで描いていたようだ。潮でささくれ立った舟、海、あるいは、路地裏の古びた家々そのものよりも、それぞれが絡み合い、折り重なって見えてくる、その構図のおもしろさを表現しようとしたように思われる。

 一方、大いに感化された蒼原会は中西利雄の死後、その熱を一気に冷めさせ、次第に退廃の道をたどっていた。岡田が結核のため大手術を受け、6本の肋骨を失って療養所から出てきた翌年1959年、ついに解散し、日本水彩画会に吸収されるかたちをとった。ここで特筆しておきたいのは、この7年後、小山良修の助言により、自由な環境の互評会を復活させたことである。日本水彩画会とは別に、同志の田中武子と共に水彩画愛好者を募った。これは事実上、蒼原会の精神を引き継いだ「月次会」であった。その後、代は変わりつつあるが、この活動は現在も続いている。

【銀座から渋谷へ】
・銀座、有楽町の風景
 1960年代後半頃からはもっぱら銀座、有楽町などの街角を歩いている。都会の空気に身を置くことを好み、この頃から1970年代にかけては、東京銀座、有楽町付近のモダンな風景や建物を描いた。20歳代にも街角風景を描いているようだが、同じ場所を描きながらも岡田自身の筆致の変化とともに、場所自体も近代的変化をもたらしている。このことが相互に作用し、戦前のものと比べてみると興味深い。当時の特徴として《朝の有楽町》(cat.no.19)や《みゆき通り》(cat.no.18)にみられるような鮮度の高い原色が目をひく。モダンなすがすがしい空気をはらんでいるようだ。舟着場を描いていた頃の澱んだ湿気感のある色彩から抜け出して、外光を感じさせる明るさが画面全体を覆っている。ここでも気になる構図を繰り返す描きかたは変わらず、例えば何度も登場するのが、リッカーミシンのビルである。

 1975年には《朝の駅前風景》(cat.no.18)で文部大臣奨励賞を受賞する。1970年代に入ると、渋谷駅前や新橋駅前などの雑踏に興味を持ち始める。この時、岡田60歳。歩道橋の上から見下ろした渋谷駅前の雑踏、バスと人の波、自動車等々が目まぐるしく押し寄せる圧倒的な構図。力強く黒々としたコンテやマジックペンにより、多くのスケッチが残されている。
 そのスケッチブックには、絶好の構図を探し求めた興奮が、抑えきれないほどみなぎっているようだ。 一見、即興的とさえみえるこの雑踏のバランス感覚は、大量のスケッチの後に生み出されていたようである。

歩道橋の上に場所をとり、柵にイーゼルをくくりつけ、何通りもの駅前シリーズを生み出した。この駅前の群集シリーズは、水彩画における躍動感、流動感が正に表出した時代だったのではないかと推測される。
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  スケッチブックより│ │
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【若者の態・原宿路上】
前述した歩道橋から見おろした駅前風景を描き続けるうちに、その雑踏に自ら身を投じ、若者一人一人の動きやその様子、表情をとらえたいという心理が沸き出すのは、岡田節男にとってごく自然なことかもしれない。1982年、質屋の仕事をやめて本格的に絵に打ち込める時間を持つようになる。
──  原宿の街はモチーフを探すのに事欠かない。道を歩けばごろごろ転がっている────

 
80年代の岡田は、当時流行っていた”竹の子族”を始めとする、待ち合わせの若者、立ち話をする若者、ありとあらゆる原宿に集まる休日の若者の様相に眼を向けている。「現代に呼吸している人々の態から題材を採りたい」と考えていた。

若い女性を描くのを好んだといわれているが、モデルとしての身体より、動きのある身体、都会に生きる若者の身体に、彼はどれほどの魅力と興奮を覚えたであろうか。日本水彩画会の研究所でも、女性のモデルを使い描いており、これもまた夥しい量の女性像、裸婦が描かれているが、街に取材した若者の態には躍動感があり、《踊り》(cat.no.49)に代表されるようなリズム感がうみけられる。またこの頃は、画面が非常に透明感を帯び、水彩の重なり合いが若い身体の身軽さとあいまって、非常に軽やかな動感を醸し出している。

 しかし、常に瞬間的な感性にのみとらわれることを避けるため、第三者的な眼を持つ努力をしていたようである。若者の姿を追った写真がアルバムになってのこり、またスケッチを繰り返している。何度も構図、組み合わせを確かめ、まず小さめの用紙に描いた上で60号大に描いていることが多い。だが、その繰り返しが必ずしも成功しているとは言い切れないところもあるようだ。生きた水彩のタッチは最初に描いたと思われる小画面の方が、より鮮度が高く思える。このへんが水彩画の難しいところであり、また魅力なのであろうか。

 そんな中で、非常に隙がなく完成度が高いと思われる《石室の女》(cat.no.50)には身体を水彩の重なり合いにより、実に的確な構図でとらえている。彼女らの体重を思わせるかのようだ。濃密な身体を描き上げた一点として魅力的な力作である。

 90年代に入ると、《裸形集態 習作》(cat.no.72)にみられるように人体の研究を繰り返した跡が見受けられる。さすがにこの頃になると、一時期のみなぎる力強さは影をひそめる。が、水彩画家・岡田節男が、最晩年に描き出そうとしていたであろう方向が想像される。

─── この曲る処に人間の体の表現の面白さが出(中)ます。
ます。腰骨の下を箱とし、ケイ骨、背骨は、***運動を動します。すなはちいつもS字型です。之のSの表情が人間の面白さをやさしさを現はします。(中略)
肩とこしの傾きの変化が人間を非常に面白いかたちにします。人間が立つと云うことは真に不思議なバランスを保つもので、このバランスの妙を画くことが人間
の面白味です。(後略)─── 

 【岡田節男メモ書きより】
 蒼原会当時、毎週一回、人体部で研究を重ねていたという岡田節男。現在、この頃の作品はその存在を特定できていない。しかし最晩年に至り、裸体を一つの「妙なる形」としてとらえる岡田は、水彩という極めて重量感の乏しい素材で、的確な人体分析に基づき描こうとしている。それも動きをもつ裸体を描こうと試みていたようである。

【晩年の静物】
これほどの熱意を感じさせる岡田節男だが、もともと体の弱いひとであった。晩年は腸閉塞を何度となく繰り返し、入退院を繰り返しながらの生活だったらしい。体力も落ち、アトリエに籠もって描く時間が多くなると、主に静物を小さな画面に描いた。

 果物、布、人形、ランプなど。ものを配すのにも、自身で愉しみながら、試行錯誤しながら置いたようだ。晩年のスケッチブックにその時間がうかがえるメモが残されている。また、晩年に至ってもアトリエ内に石膏像を転がし、手先の修練に励んでいたようだ。ものの形、ものの本質をつかもうとするデッサンの繰り返しを惜しまなかった。その修練があってこそ、絵の具をふくませた筆先が自在さを生んだのだろう。

 晩年の静物は単なるおとなしい物の集合ではなく、まるでピアノ音のきらめきのような、あるいはその重なり合いの軽やかさとも言うべき動きが現れているようにみえる。そんな中、多色を配す彼独自の画風には珍しく、セピア色一色の濃淡で描かれた静物画が数枚、しっかりしたサインを記して見つかっている。伸びやかな気分が筆に伝わり、流動感を帯びて、実にシンプルな美しい静物画に思える。
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    セピア色の静物│ │
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─── 人間は年をとる毎に物を観る眼は進歩するようである────
【岡田節男スケッチブック中のメモ書きより】
自分の絵画においても常に第三者的な冷静な眼を持とうと努力した。日本水彩画会の理事を務めあげながらも、周囲には若い人々が集った。かつての岡田のような、意欲あふれる者が自然と集まってきたという。本質をつく彼の批評眼は、その穏やかな人柄のせいもあろうか、率直な物言いにも関わらず、皆に親しまれた。

病の床にありながら、最後の最後までスケッチブックと鉛筆とを手放さず、描き続けた。画業を追ってみてくると、彼は、風景にしろ人体にしろ、複雑な動きの中でとらえようとしていたようにおもえる。その動きや流れに飲み込まれてしまわない、眼を持ち続けた。みずみずしい透明感と、重なり合うごとにそれぞれの透明感が複雑な表現を醸し出していく素材、水彩。その可能性を年をとる毎に進歩してゆく眼で、まだまだ追求したかったであろう。と私は想像する。
岡田節男の絵画をとおして、自身の感性、あるいは素材の性質にのみとらわれない絵画をみつめなおす機会としたい。    (当館学芸員)

 

 

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