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平成9年10月3日、岡田さんが亡くなった。
永遠の青年のように見えたが、今度は、入院中なぜかふらりと冥界に旅立たれた。今度は、というのも、岡田さんの入院は珍しいことではなく、近年のみならず若い頃からのようで、故小山良修氏をして、「岡田君は入院中は年をとっていないんだ」と言わしめたほどであった。83歳という年齢を聞いて、もっと若いと思っていた人は多い。
岡田さんは恵まれた環境で育ったためか、世俗的な雑事には無頓着で、およそ生活臭を感じさせない人であった。屈託なく、着こなしなどもどこか粋で、根っからの都会人という感じがした。
そんな人柄からか、若い頃から先輩達に可愛がられたようで、蒼原会当時の中西利雄、小山良修、富田通雄の各氏をはじめ、岡田正二、丸山東美男など錚々たる人々との交流を通じ、天性のセンスに磨きがかかった。そして、絵とともに生涯を送った。
岡田さんの最も感心するところは、絵に対する幅広くかつ的を得た鑑識眼である。本物を見分ける眼力である。まさに動物的直感とさえ形容できるその能力は、大したものであった。オーソドックスなものから、抽象・前衛を含むモダンなものまで何でも、見ると即座に周囲も納得する判断を示した。自らひけらかすことをしなかったが、音楽や文学にも造詣が深く、なかなかの食通でもあり、横文字にも強かった。
そういうセンスとともに、いつまでも青春の感性をもっていたので、若い人達に慕われた。そして、絵のことなら少しも厭わず相談にのった。
自身の絵についても、描く情熱は衰えることを知らず、暇さえあればスケッチに余念がなく、自分なりに如何に描くかについて考えを巡らしていた。昔から続けている互評会に最近寄せた小文にも”写生と制作との関連”とか、”絵の平面性の問題”とか”絵を描く幸福感と惑いや苦しみ”などについて触れている。
岡田さんの絵は技巧に走ることなく、新鮮で洒脱な風格があった。絵における間のようなものを心得ていた。だから誰でも、構えることなく、らくに見ることができた。岡田さんは風景、人物、静物何でも描いた。人物は若い女性が好きで、日本水彩画会研究所では常連であった。モデルの近くに座り込み、見上げるようにして描く姿が目に浮かぶ。
水彩画の栄光の時代を知る証人の一人が消えたわけで、死生は天命とはいうえ、寂しいものである。問われれば、楽しそうにいくらでも往時を述懐し、エピソードには事欠かないようであった。近年('95年8〜9月)渋谷区立松濤美術館で行われた「大正・昭和の水彩画」展には、岡田さんの若き日の作品も掲げられ、さらに、展覧会のカタログに「葦のずいから天井覗く」という一文を寄せ、蒼原会当時の追想の一端を残してくれたことは僥倖であった。
岡田さんは昭和30年、船だまりの風景で日本水彩画会賞をとって会員となり、昭和50年には渋谷駅頭の雑踏を描いて文部大臣奨励賞に輝いた。また、審査員、理事を務め、後進の育成と本会の発展に大いに貢献するとともに、地域の文化活動にも尽力した。
「死して亡びざる者は寿し」(老子)とか、岡田さんの情熱を受け継いだ多くの人達が、新しい水彩画の道を力強く拓いてゆくことと思う。
謹んでご冥福をお祈りする次第である。
(日本水彩画会会員)
【「会誌143・日本水彩」(1998年)より転載】
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