財団法人 大川美術館     OKAWA MUSEUM of ART, KIRYU

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絵画の本質への反省
水彩画の歴史と今後の方向
大 川 栄 二

 私の家内が今からでも絵を習いたいと云うので油彩をすすめたが、市で一番大きな文化教室に水彩画教室はあるが油彩はないと云う。理由は油彩は水彩に比し難しいので生徒が集まらないとか、深く尋ねると用材の使い方も簡単だし気安く手の届くところに有るので入り易い。油彩をやるにしても入門として先ず水彩を習うのが良いとのことで、家内も水彩画を習い始めたが、こんなところにも水彩画家群の美術界での衰弱の環境が潜んでいる。

確かに水彩画の方が油彩画より描くのが易しく、手にすぐ届くところにあるようにみえるが、実際はずっと難しいので、一言で云えば水彩画は一発勝負だが油彩は修正が利くので容易なのである。ところが油彩は修正が利くから逆にごちゃごちゃになり易く熟練工でなければ駄目といえる。だから油彩以前の入門とされるがこれが間違いの源等々・・・絵の深みは正に人間的であり人生と同じく奥が深いものなのである。

 何れにせよ、水彩画は水絵という、より含蓄ある言葉もあるが広義の水絵には、ヨーロッパで興ったテンペラ、カゼイン、水彩、グワッシュ、日本でも水墨、岩彩、浮世絵、最近の墨象など日本画と呼ばれる物なども同じで、どれも紙に絵の具や墨などを水で溶いて描かれているから総てが水彩画といえるのである。また油彩でも水絵に近い表現でオシメ描きと称する前田寛治がよく好む技法があり、水彩でも中西利雄の様に一貫して油彩以上の重量感ある画趣を遺した画家もいる。

 何を描こうとしているのか、何を表現したいのかにより一番適した用材や技法を選べばよいので、絵に向かう前の画家としての確かなスタンスがあるかないかが本物かどうかの重大な姿勢であり、欧米の如くみな「画家」であり特に水彩画家と分けない方が良いと思うが、何故か日本では版画家とか水彩画家とか水墨画家とかに分別される。こころよりも技法をどうも優先する国民性からなのだろう。

 こんな画材別の区別は最早21世紀のものでなく、若しこれがある限り日本画と共に国際性の具備は遅々とするのだろう。このことは決して日本文化の根っこである“日本人のこころと技”を否定するものでなく、あのピカソに8人の別人のピカソが居ると謂われているが、見えない底には総てカタルニアが厳然として潜むように、日本人の根っこを失したら一時的にどんなに輝いても一時の根無し草となって仕舞う筈である。

 確か中西利雄が常に語っていたように、水彩画家である前に先ずは−謙虚な一人の真個の画家でなければならない−と。これは画家だけに云えることだけでなく昨今の流行語の「本物」と謂う言葉を享受できる何事にも通じる前提条件と思う。 それでは、蛇足に流れたので本論に入ろう。

水彩画の起源とヨーロッパの水彩画

 絵具の水溶性から広義の水彩画を考えれば前述のの如く、ルネサンス期のボンベイの壁画は石灰などの粉末の顔料を水で練ったフレスコからテンペラ類に遡れば今から600年ほど前だが、今日我々が水彩画として考えられるような絵はドイツの巨匠アルブデヒト・デューラー(1471〜1528)とも云われる。

デューラー以降の巨匠の作品にはオランダのレンブラント(1606〜1669)が下絵やデッサンに使用したようだが、白色顔料を入れた不透明絵具(グワッシュ)が生まれ徐々に発展したが、イギリスでグリセリンが発見されてから水彩画はヨーロッパ本土よりイギリスにおいて著しい発展を遂げ、イギリス水彩の父と云われるサンドビー(1730〜1809)コーゼンス、ブレークに始まりウィリアム・ターナー(1775〜1851)出現からコンスタブル、ロセッチと続く18〜19世紀に亘る輝けるイギリス水彩黄金時代を形作った。

これはグリセリンを付加するようになったことで絵具を長期保存出来るようになったことで、絵画流通を円滑にしたことと、水彩の特徴がイギリスの叙情的風土に適した為の大衆化である。だが後日それがイギリス水彩の安易な保守化を斉し、この流れが明治初期に日本に導入されたのである。

 またフランスではローマン派の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワ(1798〜1863)テオドール・ジェリコー(1791〜1824)と続きルソー、ドーミエ等を経て印象派に入りマネ、モネ、シスレー、ルノアール、ドガと味のある水彩画を遺しているし、新印象派のシニャックも港風景に名品を遺している。象徴派のモロー後期印象派のセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンも水彩ならではの油彩画を凌ぐ名品を描いているし、更にデュフィ、ブラマンク、ルオーのフォーブ画家達から立体派のピカソ、レジェ、エコールド・パリ画家からローランサン、ユトリロ、シャガール構成派のロシアのカンディンスキー特にスイスのパウル・クレー(1879〜1940)など遺作品の殆どが怪しく清純で美しい水彩画ばかりである。

 以上の通り、正に油彩には出せぬ趣の水彩ならではの一級芸術品ばかりなのである。
 では日本の水彩画はどうか。

 −明治−
 安政六年(1859)チャールズ・ワーグマン(1831〜1890)がロンドンニュースの記者として来日したが、その傍ら五姓田芳柳・義松、高橋由一、小林清親たちに英国流の水彩画を以て風景画を育て、又一方で明治九年(1870)にフォンタネージ(1818〜1882)が工部美術学校で浅井忠、小山正太郎、大野幸彦に英国流とは一味違う味の不透明水彩を交えた水彩画を示したが、更に至難な水彩大作に挑戦した吉田博もこの流れである。

 その後明治20年になるとイギリスからイースト、バーレイ、パーソンズ等の水彩画家が来日し英国流の繊細で叙情豊かな水彩画が当時の文学ルネサンスと併せ当時の学生達を魅了し、明治30年前後より40年代にかけてファッション化する程の隆盛をみたのである。明治35年の第一回太平洋画会展の出品作の半分が水彩画となる程の水彩画家群の輩出と、巷では水彩著書、絵はがきが飛ぶように売れたのである。

 然し乍らこのような時代に安住し厳しい芸術へのロマン、即ち絵に向かうこころと厳しいデッサンをないがしろにしたことが、其後の水彩画壇に限りなき凋落を齎したのである。

 そんな中でも特に大下籐次郎は、三宅克己と共に明治の水彩画を代表する人物で水彩画家を目指す青年達に大きな影響を与えたリーダーであり、あの歴史的美術雑誌「みづゑ」を明治38年に発刊し翌39年〜40年と水彩画講習所や日本水彩画会研究所を開設し全国の水彩画普及活動に挺身したが惜しくも明治44年42才で夭折した。

 三宅克己は、其後の中西利雄と同じく生涯の制作を水彩に終始したが、彼はアメリカからイギリスと渡り本格的な英国水彩の技法を身に付けその明快な風景画は叙情的色調の正に典雅な切れ味だがどうしても風景画の小品が多く水彩画だけの世界である。また、水彩界の賑わいに便乗したとは思えぬが昨今と違い当時の油彩画家の殆どが水彩画も相当描いて居り、特に浮上するのは浅井忠が突出し彼がフランスでグレーを訪れて描いた数々の水彩画は、日本画の歴史ある土壌を生かした故か極めて高水準のものでターナーに比べても全く遜のない存在感である。

そしてその門下の石井柏亭も適格な描写力を生かした典雅な滞欧作品を多数遺しているし、また藤島武二、白滝幾之助、中沢弘光、南薫造、萬鐵五郎等も油彩に劣らぬ佳品を描いているし、青木繁の神話を取材した「黄泉比良坂」の下絵などは特級の水彩画稿である。

−大正期から戦前迄−
 大下籐次郎を明治44年に失った水彩画壇は、時を同じくしての世の景気停滞と共に急に色褪せてきたが、それは其後の圧倒的な油彩の変革の前で全く影の薄い存在のマンネリ化に入り込んだのである。即ち生活環境の変化に伴う都市化の中で、水彩画に最も適した表現であるローマン的自然主義だけでは納まり切れなくなったのに、その時代性と人間性の相克を芸術という枠の中で探求すべき試練に挑戦せず、安易なアマチュアリズムに埋没せる為の当然な流れだったのである。

 そこで大正10年23才で東大医学部の学生だった小山良修が美校入学前の中西利雄、銀行員だった富田通雄と3人で油彩画に優る水彩画の本質追究を目指して「東京三脚会」を結成し若き同士を募り水彩画の研鑽を誓い合ったのである。あと大正13年「蒼原会」と改名し、それから昭和34年中西利雄の死を以て日本水彩画会に吸収されるまで、紆余曲折を経ながらも地道な努力を続けたのだった。

蒼原会の活動は非常に多岐に亘った全国展開で、地方では小中学校の教師が中心だったからか、結果的に一般の人々への絵画実践の啓蒙と地方教育に於ける絵画教育には貢献大だったようだが、あまりにも広域な世の低辺へのアプローチであり、小山、中西、富田の若い画学生の夢は、正に理想の追求だったと謂える。

だが勿論蒼原会の運動が其後の昭和期にある種の民の賑わいを斉したともいえるが、今では中西等が求めた水彩画の油彩化現象が、逆に中西が自ら否定し切っている白を乱用せる不透明水彩の多様につながり、皮肉にも水彩画の真の良さを抹殺してしまい強烈な表現力を得たかとの錯覚の中で、奥から滲み出るある種の日本画のよさに通ずる画家の真摯なこころを感ずるものが少ないのはどうしたものだろう。

 更に其後アクリル系の絵具も使用され諸々のメディアも多様化する中で、中西利雄没後、彼に比す強いリーダーを持たぬ水彩画界だが「画家は総て独学のもの」と断言しているピカソの言葉を再確認したところでの諸々の技法を謙虚なハングリー精神で個々の研鑽に挑戦して欲しかったのである。

−戦後の水彩画壇と今後の見通し−
 昭和20年5月神奈川沢井村に疎開した中西利雄は、戦後22年5月に中野の自宅に帰り文化学院で美術教師をし乍ら10号前後の小品を新制作展に出品するが、体調すぐれず連載中の大佛次郎著「帰郷」の挿絵の仕事を中絶し、戦後まもなくの昭和23年47才で逝去するが中西の偉大さは其後今日迄の53年間毎年絶えるときない遺作展回顧展関係冊子等が継続している唯一無二の昭和水彩画家である。

 戦後を代表する水彩画家と云われる小堀進は、中西が押し進めた画面の単純化を風景画で極限まで追求し水平線に広がる諸々の光景を見事に定着させているが、何故か既に画壇から薄くなって居る。其のほか荻野康児、岡田正二、小山良修、小山周次、滝沢邦行、荒谷直之介、春日部たすく等々の名前が浮上するが彼らも今や殆どが画壇からは埋没されているのは不遇極まりない。

また著名な油彩画家脇田和など確か22才で蒼原会会員となり昭和8年に日本水彩画会賞を受け同会員となり、昨今の其後に油彩画家として大成したが、素晴らしい版画も創るあれだけの画家であり資質からも脇田しか描けぬ昨今の水彩作品を見たいものだ。

 今回の企画展画家岡田節男は、昭和9年21才で蒼原会に入り中西利雄、小山良修に師事したが特に中西利雄を敬愛し続け中西死後も中西と全く同じく油彩画家を超える水彩画を確信し水彩一本に挑戦し続けた画家であり、岡田絵画の説明は前述のごあいさつ程度とし、若い学芸員達に任せてここいらで筆を折りたい。

 尚、掲載枠に限度ある為言及していないが、油彩画に優る水彩画を遺した歴史的画家は他に古賀春江、村山槐多、関根正二、石井鶴三があり、他にも日本画の歴史的土壌を生かせる水彩画家群多数居る筈だけに、厳しい画家としてのスタンスに立ち中西利雄も超えた作品を創り得る民族の資質に自信を持てば、何れは必ず到達出来るものと信ずる。この拙い素人臭い一文は岡田節男の1000枚を悠に超える膨大なタブロー遺品に接して初めて生まれた衝動でもある。

 22才の青年松本竣介が日本で初めての福島コレクションをみて岩手日報に托した一文の中に「日本洋画家達が眼に写ったもののみを掴み取ろうとパリ指向一辺倒の時に、彼らフランスの前衛画家達は東洋・日本の水墨画の域に達せんとしている」と評論しているが、これは若くして竣介が東洋の墨彩画をヨーロッパ油彩以上のものであると感じていた挙証であり、正に青年竣介の凄い程の資質である。これは東洋の線と空間を生かした無限の味わいのことと覚えるが、このことはあの浅井忠を生んだ日本の水彩土壌に無限の可能性を信じたいのである。

 20世紀末の世相の廃退は年々拡大し美術界とて例外ではないが、経済一辺倒による都市の砂漠化と共に、一気に第三次元、四次元の世界にすら突き進んでいるが、理論のための理論にデコレートされた現代絵画は正に無責任な拡散の運命にあるような気がしてならない。だがそれは流行と同じく何れは古典に還るほかない円周の中だろうし、地球の総てを支配する太陽が一日24時間のスピードのままなのに何をこんなに急ぐのか、何れは不測の超大事が惹起して初めて人間の英知が再生するだろうと信じたい。

 芸術は文化の支柱の一つだが、その土壌は人間性であり、中心は愛であり時代と共に進歩し時代と共に変化するのは文明生活だが、肝心のこころ即ち人間愛は不変で時代と共に変化など全くないのです。美術の真髄はこの愛の探求でありその裏にある悪の追求でもあり、従ってこころの葛藤を放出するエコロジーの領域だと思う。この意味で水彩画を旧いサロン芸術だと陳腐視する現代日本の時流は間違いとは云えぬ迄も「トッポイ」と筆者は思う。ただ往昔の「絵かき」は一種の魔術師と云われていたようなので、何れにせよ愉しいはなしでもある。

 筆者は日本画だろうと洋画だろうと、即ち絵具が水彩であろうと油彩であろうとアクリル、テンペラ、カゼイン、コンテ、エンピツ、墨だろうと、またコラージュだろうと版画でも、その目的を果たすのに一番に相応しい材料を用いれば良いのである。肌の鑑識眼として作品と一緒に生活して飽きないもの、飽きるどころかいつも新鮮なもの、否どんどん良くなる作品すらあるのはまさに人間関係と同じである。

 云い換えれば、これは用材の如何だけでなく単なる技術でも余り関係なく画面に浸み込んだ「こころ」が生きているかどうかの一番の大前提である。この意味でこの岡田節男の水彩は簡易平凡のようだが、人間がこよなく好きで、だからそこで生活している都会も好きで仕様がない素朴な一都会人だけにこれだけの生きた絵が描き続けられたのだと覚えるが、都会の生活から逃れた筈の筆者にも羨ましい限りの人生である。

 このエッセイ脱稿後に知ったのだが、家業が質屋で絵は絶対売らなかったとか、何か納得できる明るい話である。ご笑読有難うございました。


               (理事長兼館長)

 

 

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