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祖父は身体の弱い人だった。若い頃には結核で「洗面器いっぱい血を吐いた」と母が言っていた。夏の暑い盛りに上半身裸で家の中にいると、背から胸にかけての大きな手術の傷跡が痛々しかった。医者からは「とうてい50歳までは生きられないだろう」と告げられていたが、徴兵を免れ、祖母の手厚い看護のもとに80余年の寿命をまっとうできたことは幸運であったに違いない。
そのせいもあったのだろうか。幾度となく生死の境をさまよった祖父には、一種独特の感性が宿っていた。いつでも空気の中に自らの霊を漂わせるような目つきで物事を見つめて生きていた。きっと小さな頃から体の弱かった祖父には、健常な我々とは全く違った感性が研ぎ澄まされていったのであろう。
祖父はいつもどこかおかしなことを言っていた。丁度時代遅れの明治の文化人のような人だった。道を歩けば「あの電柱さえなかったらなあ」と立ち止まり、約束の時間など守った例がない。また息も絶え絶えな病床を見舞うと、第一声に「その洋服にはそのベルトがきいているね。」と言って心配する家族を笑わせた。どんなときも終始穏やかで、物思いにふけっては、突然とんでもないことばかりを言う。おそらく我々家族は、その一つ一つの言葉の意味を半分も理解していなかったに違いない。
そんな祖父に私は「鼻持ちならない娘」と評され、大学が休みの度に絵のモデルとして多くの時間をアトリエで一緒に費やし、かわいがってもらっていた。ある時「水彩のおもしろさってなに?」と聞くと、「水彩はその一筆一筆の重なり合いから織り出される美しさがいい。」と言った。とても繊細で美しいものが大好きであった祖父には、儚いようでいて重みと深みのある水彩がよく似合っているように私は思えた。
祖父は生命力の溢れる美しいものがほんとうに好きだった。いつでも年甲斐もなく若い人が好きで、胸をときめかせていた。一見穏やかでやさしそうであり、内心とても頑固で神経質であった祖父。祖父が見つめ続けてきたその視線の先には、いつも「美を探求する幼心」があり、その美しさは充分に遺作の中に表現されているのではなかろうか。
最期のとき弱り果てた病床にありながら、「真紀、人間とはなかなか死ねないものだね。だけど、どんなときも人生はケセラセラだよ。」と言っていた。また、永遠の眠りにつく前に「この世はエネルギーが強すぎるね。」と言い遺した。祖父は誰よりもこの世で生きていくことがいかにエネルギーが要るものなのか、そしてそこにはたくさんの隠れたやさしさや美しさ、いたわりや尊さがあることを知っていたのだと思う。
文字通り生きるエネルギーを使い果たして旅立った祖父。その祖父が逝って三年の月日が経った。今再び祖父の描いてきた美しい世界が花開き、その世界に浸ることのできる喜びを家族として大変光栄に思う。この展覧会の開催を支持してくださった大川さんを初め大川美術館の関係者の方々に、この場をかりて厚く御礼申し上げます。
(岡田節男・孫)
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