西暦
(元号)
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年齢
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事項
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1911年
(明治44)
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―
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4月28日、宮崎県に、眼科医師であり俳人でもある父・杉田直と、母・雪のもと、七人兄弟(兄・正臣、姉・君、千枝、十三、笑、妹・杉)の次男として生まれる(妹・杉は1912年に生まれる)。本名は杉田秀夫。
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1924年
(大正13)
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13歳
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4月、宮崎県立宮崎中学校(現・宮崎県立大宮高等学校)に入学。この頃童話を作り少年雑誌に投稿する。
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1925年
(大正14)
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14歳
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4月、中学を退学し上京、戸塚にある私立・日本美術学校洋画科に入学し、この頃より油絵を描く。
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1927年
(昭和2)
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16歳
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美術評論を書き始め、『みずゑ』『アトリエ』などに投稿する。
5月、日本美術学校を退学。
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1930年
(昭和5)
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19歳
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4月、オリエンタル写真学校に入学し写真の研究を行う。「フォトグラム」の制作を始め、写真評論を写真雑誌『フォトタイムス』に発表する。
5月、日本美術学校での友人である伊藤登、名方和郎と「抒情社」を結成し、木版画誌『EX・LIBRIS』を刊行、版画評論を書く。
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1931年
(昭和6)
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20歳
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5月、宮崎に帰り、徴兵検査を受けるも不合格となる。
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1932年
(昭和7)
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21歳
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写真評論を離れて油絵の制作を開始。作品を二科展など各種公募展に送るが落選し、翌年も大作を送るが全て入選ならず。
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1934年
(昭和9)
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23歳
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この頃から兄・正臣の影響で、ザメンホフが創案した国際語―エスペラント語を勉強し始め、その普及にも努める。
10月、宮崎美術協会の設立総会に参加。
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1935年
(昭和10)
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24歳
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5月、中央美術展(東京府美術館)に油絵《海辺》が入選する。
9月、宮崎の友人達と、洋画グループ「ふるさと社」を結成。
12月、日本エスペラント学会特派使節として九州巡回中の美術評論家・久保貞次郎との交友が始まる。
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1936年
(昭和11)
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25歳
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1-2月、印画紙による新しい作品を制作し上京、久保貞次郎と共に画家・長谷川三郎を訪ねる。長谷川と美術評論家・外山卯三郎の協力で、この作品を「フォト・デッサン」と命名、「瑛九(Q
Ei)」の名で発表することを決定し、4月にフォト・デッサン作品集『眠りの理由』を刊行。
4月、長谷川三郎、山口薫、矢橋六郎、村井正誠ら「新時代洋画展」の同人となり、同会の連続個人発表会の一環として「瑛九氏フォト・デッサン個展」(銀座・紀伊国屋画廊)を開催。
小野里利信、植村鷹千代らと「同時代」を結成。海老原喜之助、三岸節子らを知る。
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1937年
(昭和12)
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26歳
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2月、自由美術家協会の創立に参加、7月の第1回展にフォト・モンタージュ作品を出品する。
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1938年
(昭和13)
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27歳
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自由美術家協会を退会。これまでの抽象作品から離れて毛筆画を始め、羽織袴で宮崎神宮の神前に静坐する、「寂音」の号で俳句を作るなど、東洋的なものへの関心が深まり、精神・行動が大きく変化する。自らの手で、それまでに描いた多くの作品を焼き捨てる。
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1939年
(昭和14)
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28歳
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6月、宮崎で「瑛九・杉田秀夫個人展覧会」(大潮社)開催。栃木県真岡の「児童画公開審査会」に出席し、同会に参加していた小野里利信と桐生へ同行する。11月には、小野里が宮崎に1ヶ月滞在し、親交を深める。
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1940年
(昭和15)
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29歳
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3月、宮崎の若い画家達と絵画グループ「美郷社」を結成し、油彩制作の他、論文・随筆を美術雑誌に寄稿する。
5月、退会していた自由美術家協会(7月に「美術創作家協会」に改称、戦後は旧名称に戻る)の第4回展のために上京、出品し再び会友となる(しかし翌年、協会の在り方を批判し退会、49年に会員に復帰)。
11月、絵画を根本からやり直すため、翌年2月頃まで独立美術協会の研究所などに入る。
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1944年
(昭和19)
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33歳
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5月、腸捻転のため谷口外科病院に入院、手術を受ける(11月に再発し再手術)。
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1945年
(昭和20)
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34歳
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戦争を避け、宮崎県北諸県郡野尻村に疎開する。絵を描かずに、エスペラント語の小説「祖国」を書く(現存せず)。
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1946年
(昭和21)
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35歳
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1月、日本共産党に入党し各地で講演を行うが、病気再発により6月に離党する。
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1948年
(昭和23)
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37歳
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9月、谷口都と結婚し、フォト・デッサンの制作を再開。
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1950年
(昭和25)
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39歳
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10月、東京で「瑛九フォト・デッサン展」(上野・松坂屋)を開催。
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1951年
(昭和26)
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40歳
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6月、大阪から森啓、吉田利次、早川良雄、泉茂、河野徹、棚橋紫水、宮崎から瑛九、郡司盛男、内田耕平、外山彌の10名により「デモクラート美術協会」を結成(57年解散)。第1回展は大阪美術館で開催。
8月、宮崎で「瑛九画伯個人展」(宮崎県立図書館ギャラリー)を開催。
9月、浦和市仲町に移り住む。翌年、同市の本太町に移り没年まで住む。
この頃からエッチングの制作に専念する。
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1952年
(昭和27)
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41歳
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3月、デモクラート美術協会・東京第1回展を銀座松島画廊で開催。会員に加藤正、河原温、利根山光人、靉嘔、福島辰夫、山城隆一、細江英公、磯辺行久、吉原英雄、池田満寿夫などを迎える。
5月、久保貞次郎、北川民次、室靖らと「創造美育協会」を創設する。
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1954年
(昭和29)
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43歳
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6月、久保貞次郎コレクションによる「西洋版画展」と、デモクラートの仲間による「日本前衛版画展」(桐生織物会館)開催のために桐生に行き、オノサト・トシノブと親交を深める。
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1955年
(昭和30)
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44歳
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1月、「瑛九フォト・デッサン展」(日本橋・高島屋)を開催。36年から54年に制作した70点余りを展示。
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1956年
(昭和31)
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45歳
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3月、浦和の石版師・金森茂について石版の技術を研究し、リトグラフの制作に専念する。
8月、長野県戸倉で開催された創造美育セミナールにデモクラートの仲間と参加してエッチングの講習会を行い、池田満寿夫が助手を務める。
9月、尾崎正教らの「版画を普及する会」と「大田区図画研究会」の共催によるエッチング講習会の講師を担当、池田満寿夫が助手を務める。
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1959年
(昭和34)
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48歳
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山口正城、西田信一、難波田龍起、オノサト・トシノブらと新グループ「日本抽象作家協会(仮称)」の結成を図るも、山口の急逝で中止。
10月末、油彩の大作の制作に没頭するも疲労がつのり病床につく。慢性腎炎と診断され浦和中央病院に入院。年末に退院するも、翌年1月に再び入院。
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1960年
(昭和35)
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―
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2月、「瑛九油絵個展」(兜屋画廊)を開催し、58年から59年に制作の油絵大作9点を出品する。会期中に東京神田の同和病院に転院。
3月10日朝、病状急変し急性心不全により48歳で永眠。
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1969年
(昭和44)
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―
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『瑛九原作銅版画集』(全5巻)が南天子画廊より刊行される。
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