「武田
久について」
小此木 美代子
(T)
武田久は、
1921年(大正10)5月22日、栃木県河内郡平石村、現在の宇都宮市下平出町の旧家に生まれた。宇都宮はその昔、付近一帯が沼沢地であったことから池辺郷とよばれ、東方に鬼怒川、西方に大谷石を採掘する豊かな自然に恵まれていた。日光街道、奥州街道の分岐点をなし、宿場町、城下町としても栄えた。
武田久もまた、そんな美しく牧歌的な空気漂う農村に多感なときをすごした少年だった。彼の家は、
6人の奉公人の家族を住まわせるほど豊かな旧家であった。父は収入役で、一時期市内の小学校教員もしており、地元ではかなり信頼のおける教養人であった。日本画を嗜み床の間の掛け軸などを手掛ける腕前をもっていた。母は明治生まれの教養ある女性の一典型のような人物で小学校教員をしていた。学生時代、東京・お茶の水の女子高等師範に留学し、垢抜けた生活の経験をもち、その後の子供たちの教育に少なからず影響を与えたといわれる。農村の少年としては珍しく洋服に革靴で登校した久は、家では雑誌「少年クラブ」をとり、読み物や付録に胸をときめかす少年時代を送っている。当時より、絵を描くのが上手く、学芸会の舞台絵や教師の似顔絵、運動会の背景の絵柄を担当させられた。[注1]
(U)
東京高等師範学校(現・筑波大学)を卒業後、香川師範学校(現・香川大学)の文部教官を経て、1946年(昭和21)、美術教師として郷里の宇都宮中学校(現・宇都宮高等学校)に赴任した武田。そこで彼は名校長・山本作郎と出会う。山本校長の打ち出したいわゆる全人的教育の新しいうねりのなかで、大きな気概を覚えた。当時掲げられた滝ノ原精神の標語『質実剛健・自立自治・進取究明』は武田自身生涯の指針ともなるほどに気に入っていたとご子息より聞いている。特に、宇都宮高等学校生を主軸とする、市内の美術愛好家までも巻き込んだ美術クラブ「瀧ノ原パレット会」(いわゆる生徒による美術部活動の名称)は特筆すべきことであろう。大正4年に既に創設されていたパレット会[注2]は、戦争を挟んで活動が休止していた。しかし、戦後の荒んだ状況下にも拘わらず、武田の赴任以後、川上澄生を顧問とした新制パレット会は実質的な復活を果たしている。宇都宮高等学校の内外において、その活動は活発化されていった。その一因に若き美術教師・武田の存在は多大な影響を与えたといえる。熱気みなぎるモダンな美術の授業に、多くの青年が惹きつけられた。けして多言な教師ではなかったが、ときには自宅のアトリエに生徒を集めデッサンを共にしたという。[注3]芸術を志す若き感性は、切磋琢磨しあい良質な表現活動の基盤を確立していった。宇都宮高等学校卒業生であり、現在ニューヨークのアート・ステューデンツ・リーグの教師をしている彫刻家・斎藤誠治氏は当時の記憶をこう振り返っている。
「瀧の原時代に培った清純で感受性の豊かな文化の芽が、夫々の分野で成熟して開花している。先生の業績は、眼に見えないところで、深く交流した仲間たちの感性に受け継がれて、尊い文化遺産になっている」[1996年/武田久展図録「恩師
武田久先生を想う」より]
現在の宇都宮高等学校には、この頃の生徒による作品群が今も大切に保管されている。その一点一点の質の高さには眼をみはるものがあり、当時の美術教育の余熱を感じさせてくれる。
(V)
1951年(昭和26)、江連正、曽我芳子らと栃木二紀会を設立する。この年より東京高師の同級生である林健造氏の勧めもあり二紀展に出品を始めている。戦後復興のなか時代の息吹とともに武田自身の創作も開花しはじめていた。二紀会初出品となった《落下傘と人》(cat.no.1)は今展では最初期の作品にあたる。この画面には武田の絵画空間の捉え方、または今後の展開を示唆する要素が含まれているように見え興味深い。奥行きや動きそのものに重きをおいた視線を感じさせるものがあるようにみられる。大気をあつめ、宙に浮こうとする落下傘の先端を持ち上げようとする人物。そこには絵画の平面に新しい空間を見出そうと試みる武田の心情が読みとれる。武田の画面には最初期より、こうした落下傘や気球といった具体的なものが登場している。大気や空気といったものを自らの絵画に意識していたことが見受けられる。
(W)
武田が、独自の重厚な画面をより模索しはじめる時期に、団千恵子バレエ団との出逢いがあったことをとりあげてみたい。
1958年(昭和33)に団女史の依頼で、ラベル作曲『道化師の朝の唄』を、続いて1960年(昭和35)、宮沢賢治原作・芥川也寸志作曲『双子の星』、A.ルーセル作曲『蜘蛛の晩餐』の衣裳、舞台装置のデザインを手掛けている。現在、その衣裳や装置の所在を確認出来ていないが、遺族のもとにのこされたいく通りもの装置の構想、あるいは衣裳のスケッチや写真および公演の新聞記事などによって、その片鱗をみることができる。身につける衣裳のみならず、踊る人の身に付けた白のレオタードに上から幾何学的な模様を描いた道化師などは、斬新かつエキゾチックな様相を呈している。また子供の夢と愛情に満ちた世界を美しく表現する『双子の星』では、武田のロマンティックな部分がより際立った舞台空間を生みだした。カンヴァスという平面状の空間とは異なる、あらゆる方向に自在な表現の場のなかで、武田は大いに刺激されたであろう。
画面の中に魚や鳥にもみえる虚構の生物を創りだしているのもこの頃である。絵画上にいわゆる遠近法ではない新しい空間を生み出すことに試行錯誤していた。そんな彼が、時期を同じくしてバレエ装置・衣裳の仕事に携わったことは興味深いところである。ダンサーが与えられた舞台の上で、生命感と緊張感に満ちた世界を醸す美しさは武田のそれと重なる。《生きる》
(cat.no.6)《生物がとぶ》(cat.no.7)などにみられる画面への意識の断片が、次のような本人のエッセイにも垣間見られる。
「静物が動く」
目下「いきもの」を主題にして制作している。
鳥とか、魚とか、または全然新しい「いきもの」を自分で創り出すことは楽しい。
これはデッサンの一つで、西洋の美学にたよらない何か自分のものをまとめたいと思っている。しかし彼等を画面に棲みつかせるのが大変な仕事で、何度も移動させ、中には絵具を部(ママ)厚くぬりつけて始めて生きてくるのもいる。
とに角、カンバスの上の秩序はきびしくて完全なデッサンなしの安易な注文は、たちどころにはねかえってくる。それだけに少しでも思うようにできた時のよろこびは格別である。画面の中で彼等「いきもの」が、作者の気持をすなおに歌ってくれるからだ。 [1958年・9.28.「栃木新聞」エッセイより]
その後、地層や岩肌、またその亀裂などにもみえ、ときを重ねてきた化石をも連想させるかの密度の高い画面の展開が続く。絵画と向き合う時間の中で、画肌はときに分厚く盛り上がり、突出もした。卓越したその技術によって、また画面への執拗な追求によって、絵画そのもののなかに流れる時間、生命の美を永遠的に定着させようとしていたようでもある。
一方、彼自身の時間は、いわゆる職業画家が持ち得たような時間ではなかったはずである。実際、芳枝夫人から聞くところによれば、夕食後はほとんど毎晩、2階のアトリエに籠もっていたという。制作はしばしば明け方にまで及んだ。この夜の時間に武田のイメージは重厚な空間として構築されていった。
(X)
ここで武田久をそのデザインの仕事からみてみたい。彼の置かれた立場とタイミングも大いに関連性があろうが、前述したバレエ舞台装置・衣裳をはじめ、宇都宮市章の規定、各高等学校の校章、宇都宮高等学校の校舎改築の設計及びギャラリーの壁画制作、雑誌の表紙、菓子の包装紙等々、彼は
20歳代から多くのデザインの仕事に携わっている。
1962年(昭和37)から約7年をかけた宇都宮高等学校(校庭に日光線の線路が走るという敷地面積をほこる)改築にあたっては全面的に携わった。棟そのものの配置、外壁から新校舎内の教室割、階段、備品、照明にいたるまで、膨大な設計、デザインを手掛けている。校舎外壁の手割りの赤煉瓦、打ちっ放しのコンクリートも武田の構想が注目され実現された。けして神経質なきわだたしさはなく、大地と調和した簡潔なたたずまいの校舎となった。この仕事は、建築家後藤博氏とのコラボレーションであり、また武田の生涯のなかで最も大規模な美的空間表現の一作品となったといえるだろう。
1980年(昭和55)、武田はこの宇都宮高等学校校舎内のギャラリー[注4]に二つ目の壁画を設置している。外国産を含めた花崗岩の肌合いを主とし、アクリル素材などをはめ込んだ抽象的な壁画である。この壁画について彼はこう語っている。
(中略)・・・壁画というものは、よくあるように建物に従属したものと考えられがちだが、壁画それ自体が独立し、且つ周囲と有機的に結びつくところに価値観があり、しかも長い年月を生き続けるもの・・(中略)・・そのような願いをこめて制作に取り組んだ。(中略)
[1980年/瀧の原新聞より]
この文章につづき、「アイデアの原点となったのは、滝ノ原の光と、大地の息吹、そして二世紀へまたがる宇高のたくましいエネルギー」とし、この壁画は校舎全体を抽象的に構成したイメージを醸している。それぞれの校舎、少年たちの感性が、美しく響き合うようなデザインにした、という。「壁画の前で各自の発想を自由に展開してほしい。」と結んでいる。
その図面やデッサンをみると、仕事への驚くべき緻密な精神が伺い知れる。その線は、科学者的な正確ささえ感じさせるものがある。デザインひとつに対して、その対象に関する調査・資料収集がなされ、使用される風土と歴史、自然との関わりと本人のイメージとが重なり合い、はじめて着手されるこの姿勢は、デザインのみならず、武田の全創作活動に貫かれた精神であった。
(Y)
彼の素描、水彩画、挿絵は、みずみずしいタッチの即興的な線が印象的である。叙情性、空気感を瞬時に筆先に伝わせる。武田は、扱うモチーフと画材の特徴とを的確に見極め描いたといわれているが、けしてそれらに頼りきることはしなかった。鍛え抜かれた素描力と対象物をとらえる眼によって一本の美しい線、一面の美しい色彩は表現されている。
特に北欧に取材した《ブリクスダル(ノルウェー)》《運河(コペンハーゲン)》(cat.no.31)などは空気の異国感を武田自身が現地で素直に吸収している。拡がりのある透明感があふれ、伸びやかで美しい。武田の場合、空気を感じる感度が常に高く、晩年になるほどにその資質は研ぎ澄まされていったと見受けられる。
(Z)
国際美術協会の委嘱で西欧の美術教育の調査研究のため、イギリス、フランス、西ドイツなど西欧8ヶ国の小中学校、教員養成大学、美術館等を視察したのは、昭和42年(1967年)の夏、一ヶ月半にわたってであった。これが武田、はじめてのヨーロッパへの旅となった。当地の美術教育の現場を間近に体験し、歴史、文化、木々の色、空気のにおいや光の違いを知った。長年宇都宮に暮らし、栃木県内の自然を愛し続けてきた武田にとり、40歳にして体感した異国の空気感は、その後の制作に影響を及ぼしたといえるだろう。
1970年代にはいると、画面が非常に透明感を増す。淡く叙情性豊かな世界を醸し出し、独特のマチエールは薄塗りの傾向を帯びる。具体的な対象物が画面に描かれない《五月》(cat.no.21)のような抽象色帯びた画風も登場する。または、《かんむり》(cat.no.25)《集まる(V)》(cat.no.27)のように画面上のある部分に焦点が置かれ、重量感のコントラストが美しい構成の作品が登場する。その後、そのものを明確に描かずに一見、像の薄い重なり合いの連続のような状態の画面に移っていく。
晩年は、《いのり(U)》
(cat.no.42)にみられるように、そのほとんどが北欧に取材したモチーフによって構成されている。その旅のあらゆる感動が絵画上に昇華し、画面全体を透明感あふれる大気で柔らかく包み込んでいるようだ。武田はその記憶のひとつひとつを丁寧に呼び起こし、モチーフのもつ断片的な造形美を確かめ、マチエールにふくませているようでもある。こうした晩年の作品群には陰影や動感の余韻のようなものを画面に沸かびあがらす神秘的な画面の拡がりと安堵感が感じられる。この抒情性極まった晩年の絵画に、武田の今後の展開の行方があったように感じる。その途上で病に倒れたことは誠に残念なことである。
武田久は、36年間勤め上げた宇都宮高等学校と、生きた音色が常に響く音楽一家の家族、そして、その日常を包容する栃木の自然のなかに身を起き続けた芸術家であった。ある意味、この環境だからこそ武田は自身の絵画を静かに追求し続けることが可能であったのかもしれない。彼にとって、教師をしながらの制作活動は実に刺激的であったろうし、今を生きる若いエネルギーに直にふれあうことができた校内では、湧き出す創作意欲をクリアな状態で保つことができたのだろう。音の余韻を集積させたような武田久の絵画は、宇都宮女子高等学校の音楽教師をしていた夫人の生活の影響も多分にあったろう。その環境から破天荒に突き出ようとはせず、慎ましやかに自身の時間を重ねた。それが彼の品を保ちつづけた源であったようにおもわれる。独自の造形美を追求して止まないその精神の持久力はすばらしい。これまで、画家・武田久があまり多くの人に知られてこなかったことは、彼を取り巻くこの環境があまりに清いものであった証拠ともいえるであろう。
没後の1996年、瀧の原パレット会主催により武田久の回顧展がひらかれた。この折に遺族の綿密な調査蒐集によって制作された一冊の作品集は、彼の全貌が凝縮されており、武田その人をより深く知るのに貴重な文献となっている。一人の人が一生をかけて造りあげた芸術空間を、彼の絵画と出会って数ヶ月の私がここに語り尽くすことはむずかしい。ここに改めて武田久の絵画をみなおしてみたいとおもっている。
同じ北関東圏の一地方都市に位置するこの桐生で、彼の絵画空間をみることは、また新しい発見があるかもしれない。
(当館学芸員)
[注1]
武田久の実妹・高瀬佳子氏からの聞き取りによる。
[注2]
「宇都宮高等学校80年史」による
[注3]
宇都宮在住の日本画家・杉山寒月氏からの聞き取りによる。
[注4]
高等学校舎内に情操教育の一環としてギャラリーを設ける提案をしたのは武田久である。当時としては斬新な試みであった。