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西暦
(元号)
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年齢
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事項
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1920年
(大正9)
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―
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6月14日、父・高、母・志んの六男として、東京市日本橋区魚河岸21号(現:東京都中央区日本橋室町)に生まれる。生家は魚河岸で氷問屋、後に製氷工場を経営。
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1933年
(昭和8)
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13歳
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3月、慶応幼稚舎卒業。4月、慶應普通部に進学。図画教師・仙波均平に指導を受ける。
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1935年
(昭和10)
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15歳
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日本エッチング研究所(東京・麹町)に通い、主宰の西田武雄から銅版画の技法と素描の指導を受ける。関野凖一郎を知る。研究所と西田の室内社画堂で西洋のオリジナル銅版画を見る。10月、慶應義塾普通部美術部で仙波均平を講師とするエッチング講習会が開催され参加。
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1936年
(昭和11)
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16歳
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1月、『エッチング』第39号に「『エッチング』を描いて」を執筆し、《足場》掲載。5月頃、プレス機(日本エッチング研究所製)を購入。
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1937年
(昭和12)
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17歳
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8月、版画講習会の講師として九州各地を巡回する西田武雄に助手として同行。途上で恩地孝四郎を知り、一緒に長崎に滞在する。この年、小林万吾が主宰する同舟社絵画研究所に通う。ここで清宮質文を知る。
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1938年
(昭和13)
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18歳
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3月、慶應義塾普通部を卒業。4月、東京美術学校(現:東京芸術大学)西洋画科予科に入学(田辺至の指導を受ける)。日本橋の店舗の屋上にアトリエを設ける。ヨーロッパ文学、近代フランス音楽に親しむ。
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1941年
(昭和16)
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21歳
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5月、エッチング作家協会第2回展(銀座・資生堂)に出品。10月、文部省主催第4回美術展「新文展」(東京府美術館)に初出品、初入選。
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1942年
(昭和17)
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22歳
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4月、東京外国語学校フランス語専修科入学。9月、東京美術学校西洋画科卒業。
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1943年
(昭和18)
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23歳
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4月、松田平田設計事務所に就職、平田重雄から建築設計の指導を受ける。5月、日本版画奉仕会が結成されて会員となる。
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1944年
(昭和19)
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24歳
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5月、召集され、陸軍歩兵二等兵として溝の口・東部第62部隊に配属される。
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1945年
(昭和20)
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25歳
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1月、脚気のため除隊。3月、東京大空襲により日本橋の店舗や深川の製氷工場が消失。5月、大空襲により麻布の自宅も消失、軽井沢の別荘に疎開する。これまで制作した版画の大部分と画集等が消失、散逸する。
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1947年
(昭和22)
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27歳
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5月、世田谷区新町(現:世田谷区駒沢)に新居が完成。この年、関野凖一郎の紹介で恩地孝四郎が主催する一木会の同人となる。
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1948年
(昭和23)
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28歳
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恩地・関野のすすめで日本版画家協会第16回展(東京都美術館)に出品、初入選し、協会会員に推挙される。この頃、佐藤朔を訪問、詩人との交友が始まる。以後、多くの詩集の挿絵、詩画集を手掛ける。
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1951年
(昭和26)
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31歳
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4月、春陽会第28回展に出品、入選して会員に推挙される(以後、1976年の第53回展まで定期的に出品を続ける)。10月、第1回サンパウロ・ビエンナーレに《束の間の幻影》を出品、在聖日本人賞を受賞。この年、関野凖一郎が高円寺の自宅で開いていた銅版画研究会「火葬町銅版画研究所」に参加。この頃、大規模なプレス機を購入する。
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1952年
(昭和27)
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32歳
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1月、ロオトレアモン著、青柳瑞穂訳の『マルドロオルの歌』(木馬社)の挿絵を制作。この年、瀧口修造を中心に結成された実験工房に参加。
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1953年
(昭和28)
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33歳
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1月、「駒井哲郎展」(銀座・資生堂ギャラリー)開催。7月、関野凖一郎、浜口陽三らと日本銅板画家協会を結成。
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1954年
(昭和29)
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34歳
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1月、フランス政府私費留学生試験に合格。4月、パリに到着し長谷川潔を初めて訪問(滞仏中度々訪ねる)。5月、エドモンド・ロスチャイルド・コレクションによる版画・素描展で、デューラー、レンブラントなどの銅版画に接する。11月、国立美術学校に入学(長谷川潔の示唆でビュラン専攻教室に入る)。翌年12月帰国。
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1956年
(昭和31)
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36歳
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10月、吉川美子と結婚。杉並区西荻窪松庵北町に新居を定め、制作は世田谷のアトリエで行う。
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1957年
(昭和32)
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37歳
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4月、世田谷区上馬町に転居。従来通り、制作はアトリエで行う(1960年8月、世田谷区新町に新居が完成し、転居する)。
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1958年
(昭和33)
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38歳
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4月、女子美術大学非常勤講師となる(1963年3月まで)。
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1962年
(昭和37)
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42歳
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4月、多摩美術大学非常勤講師となる。6月、フィレンツェ素描アカデミア名誉会員となる。10月、長男・亜里生まれる。
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1963年
(昭38)
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43歳
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4月、東京芸術大学に大学院が新設され非常勤講師となる。大学院に版画専攻科が新設される。10月20日、深夜に第2京浜国道で交通事故に遭い、両下肢骨折。約1年間、療養生活に専念。
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1966年
(昭和41)
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46歳
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4月、長女・美加子生まれる。9月、安東次郎・詩、駒井哲郎・版画による詩画集『人それを呼んで反歌という』(エスパース画廊)刊行。これを記念して、「安東次郎・駒井哲郎詩画展」(神田・エスパース画廊)開催。
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1970年
(昭和45)
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50歳
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7月、『現代版画 駒井哲郎』刊行。9月、多摩美術大学教授となる。夫人と渡欧し、20日間に渡ってパリ、フィレンツェを巡る。長谷川潔を訪問し、銅版画の指導を仰ぐ。
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1971年
(昭和46)
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51歳
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4月、東京芸術大学助教授となる(多摩美術大学教授を辞任、非常勤講師として引き続き指導にあたる)。翌年4月、教授となる。
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1973年
(昭和48)
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53歳
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11月、『駒井哲郎版画作品集』(美術出版社)刊行。
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1974年
(昭和49)
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54歳
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3月、東京大学病院に入院、舌癌と診断。4月、国立がんセンターで手術を行う。
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1975年
(昭和50)
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55歳
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3月、舌癌の肺への転移が判明、放射線治療を受ける。7月6日、渡仏、長谷川潔を避暑先の芸術院の別荘に訪ね、22日に帰国。11月、「駒井哲郎新作版画発表全国展」が全国を巡回。12月23日、再度渡仏、長谷川潔を訪ねる。
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1976年
(昭和51)
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56歳
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1月9日、帰国。11月20日、舌癌肺転移のため逝去。12月、駒井哲郎『銅版画のマチエール』(美術出版社)刊行。
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1977年
(昭和52)
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―
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5月、遺稿集『白と黒の造形』(小沢書店)刊行。「駒井哲郎遺作展」(池田20世紀美術館)開催。
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1980年
(昭和55)
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―
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1-3月、「駒井哲郎銅版画展」(東京都美術館)開催。
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1991年
(平成3)
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―
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6月、「銅版画の詩人駒井哲郎回顧展」(資生堂ギャラリー)開催。この年、中村稔『束の間の幻影 銅版画駒井哲郎の生涯』(新潮社)刊行。
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1993年
(平成5)
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―
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5月、『日本現代版画 駒井哲郎』(玲風書房)刊行。
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1994年
(平成6)
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―
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6月、「駒井哲郎と現代版画家群像」展(埼玉県立近代美術館)開催。10-12月、「『駒井哲郎』・『清宮質文』二人展」(練馬区立美術館)開催。
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2000年
(平成12)
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―
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4-5月、「駒井哲郎展」(世田谷美術館)開催。
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