静謐の競演
「駒井哲郎・清宮質文 二人展 」によせて
館長:大川 栄二

 当館企画の個人コレクション展は、「館蔵安宅コレクション(藤島武二素描100選)」、「武田コレクション(近代洋画)」、「大島コレクション(須田剋太)」、「松本コレクション(日本画および洋画)」と、今日までの企画展55回の内、計4回に及ぶが、この度第5回として、ととや(遠藤)コレクション(駒井哲郎)、新井コレクション(清宮質文)を採り上げたのである。 

遠藤女史は市井のアートプロデューサーで、「ととや」を経営する寡婦であり、新井氏は一介の高校教諭であるが、共に自由に絵を買える富裕者とは全く違う、平均的収入の一市民だけに、所謂コレクターと自認する人達の如く、芸術的一級品狙いの蒐集や、趣味と実益を求める相当部分のコレクターとは一味違う、豊かな生活の触媒としての細やかで暖かい蒐集なのである。

 もちろん美術館としては、常設展示作品以外は他美術館及びコレクター所有の一級品を借入れ、整備蒐集の上開催するのが通常ながら、今回の駒井・清宮の二人展は、既に1994年に逸早く練馬区立美術館で代表作を網羅した約300点に及ぶ立派な展覧会を開催している。したがって今更二番煎じにならぬ為に切口を変え、一地方の私立美術館だからこそ気安く出来る、庶民的・人間的展鑑を試みるのである。

無論、遠藤・新井両氏は共に聞きしに優る美術愛好家であり、投資欲がほとんどない純粋な感覚で、絵を生活の友としている仁だけに、味わい深く暖かいが厳しい作品ばかりである。生涯に一枚の売り絵も描かなかったと伝えられる両画聖の作品だけに、自然の摂理とさえ覚える。

 とにかく、松本竣介の著名な論文「生きている画家」中に述べられている様に、「作者の腸の中に浸み込んだ肉体化したもののみに限る」とした表現行為は、それをコレクターの蒐集スタンスでもあるべきとする私だけに、「一貫して自分の眼で選び、身銭を切り、無心で絵に惚れて蒐集したのでない限り、コレクションも本物ではない」と愚考する。

 この意味に、ご両人共に両画聖へのアプローチが全く同じであると知り、所蔵作品が著名モチーフばかりでなく、あまり注目されない作品ながら「愉しくて厳しい、軽いようで底の深い」作品群であることに、私は痺れさせられた。これらはコレクターとしての一番大切な豊かな生活者感覚から胎生するものであり、正に自ら肌で覚え蒐集した大川コレクションの軌跡でもある。

 昨今の日本の、文化的世俗の低下トレンドには言葉を失う思いである。そんな中で独りがんばっている感の版画界であるが、画家でない版画家、即ち版画の為の版画、つまり日本人ならではの得意技術先行を私は心配する。日本人の工芸的器用さがマイナスする諸々…。しかし駒井・清宮の場合は、筆を版に持ち替えただけの画家、言い換えれば、画技よりも自己の人間を厳しく磨き上げながら、詩情を内体化して紙面に滲み込ませた日本版画界の頂点を示す画聖である。

本展は、2人の作品群を、あえて美術館界や一般コレクターたちの常識的批判を踏まえ、私立美術館ならではのアローワンスとして採りあげた市井の清々しい「コレクション展」でもある。?画家や技法の格差、有名度、価格等々を全く考えぬ、俗に言う珠玉混交の「松本コレクション」の愉しさ、一企業主の趣味でしかない「武田コレクション」の見事さ、地方大衆食堂主の一つ覚えの「大島コレクション」の存在感。

これら当館個人コレクション企画展開催のアローワンスは、昨今大流行の集客性第一の美術館とは全く違う、学術性こそ割引しても、決して質は落とさない、美術館は時流の「見世物」でない「こころの洗濯場」を哲理とするものであります。 各位諸々精々多数ご笑覧賜り、忌憚無きご意見賜れば幸いです。 本展開催に当たり、主面的にご協力賜りたる、遠藤京子氏、新井昭彦氏始め、駒井美子氏、清宮亮子氏、南天子画廊、ミウラ・アーツ及び関係者に深く感謝する次第です。
(理事長兼館長)


―私の絵は悲しむ人と共にある―  清宮質文