本年譜は、『日本現代版画 清宮質文』(玲風書房 1992年)所収の「清宮質文年譜」(中島理壽・編)を参考に作成いたしました。記して感謝申し上げます。

 

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西暦

(元号)

年齢

事項

1917

(大正6

 

 

 

626日、版画家・清宮彬、雪江の長男として東京府豊多摩群内藤新宿北裏町(現:東京都新宿区三光町)に生まれる。「質文」の名前は『論語』の「子曰、質勝文則野、文勝質則史、文質彬彬」(巻第三雍也第六)が出典。

1930

(昭和5

13

3月、東京市四谷区立第五小学校卒業。4月、麻布中学校に入学する。

1935

(昭和10

18

 

3月、麻布中学校を卒業。夏、同舟社絵画研究所に入所。ここで、駒井哲郎と出会う。4月、東京美術学校(現:東京芸術大学)入学(父は建築科に進むようにすすめ、建築科を受験するも不合格。第2志望の油画科に合格し、藤島武二教室に入り、4年からは田辺至教室で学ぶ。また、版画教室で銅版画を試みる。同級生の大谷元と岡田弘にすすめられてラグビー部に入る)。

1940

(昭和15

23

 

この年、同舟舎時代の仲間とグループ「同楫」を結成。6月、「同楫」第1回同人展(銀座・紀伊国屋画廊)に油彩画2点を出品。

1942

(昭和17

 

25

 

3月、東京美術学校油画科を卒業。6月、長野県上田中学校の美術教師となる。秋、駒井哲郎が上田を訪れる。

1943

(昭和18

26

3月、長野県上田中学校を退職(9月まで上田に滞在)。

1944

(昭和19

27

4月、東京三田の慶應義塾工業学校(後の中等部)の美術教師となる。6月、召集されて陸軍歩兵部隊に入隊。聖書を持ち歩き、愛読する。

1945

(昭和20

28

5月、東京大空襲で実家が被災、これまで制作した作品や父の収集した版画資料が焼失する。10月、復員。農業をしてでも制作に打ち込むことを決意し、家族の疎開する福島県へ行くも、弟妹の進学のため、東京で宿舎提供のある教職に戻ることとし、慶應義塾工業学校に復職。

1949

(昭和24

32

3月、慶應義塾中等部美術教師を辞し、商業デザインの制作に従事。

1951

(昭和26

34

2月、東京銀座の商業デザイン会社に就職(翌年5月に退職)。秋、東京都新宿区番衆町に転居。

1953

(昭和27

36

8月、東京美術学校の同級生とグループ「ゲフ(●)会」を結成。第1回展を日本橋・丸善で開催(以後、1962年の第10回展まで出品を続ける)。グループ結成以後、画業に専念し、木版画の制作を開始。

1954

(昭和29

37

4月、春陽会第31回展(東京都美術館)に《巫女》を初出品し、初入選(1974年の第51回展まで毎年出品を続ける)。岡鹿之助の激励を受ける。

1958

(昭和33

41

11月、最初の個展「清宮質文作品展」(銀座・サヱグサ画廊)開催。《葦》《むかしのはなし》など、木版画・モノタイプ約30点出品。

1959

(昭和34

42

10月、松井亮子と結婚、杉並区上高井戸(現:高井戸西)に新居を構える。

1960

(昭和35

43

夏、美術編集者・太田三吉に推薦された南天子画廊・青木一夫の訪問を受け、開廊予定の南天子画廊での個展開催を承諾する(以後、南天子画廊での新作発表を続ける)。12月、「清宮質文木版画展」(東京・南天子画廊)開催。

1962

(昭和37

45

10月、第3回東京国際版画ビエンナーレ(東京国立近代美術館)に招待出品。画商・新井栄太郎にガラス絵、モノタイプの制作を進められる。

1963

(昭和38

46

4月、『春陽帖』の編集・発行人をつとめる。

1969

(昭和44

52

10月、父・彬が逝去。

19570

(昭和45

53

9月、「清宮質文展」(名古屋・フォルム画廊)が開催され、会場で清宮作品コレクターの伊藤文夫に初めて会う。

1972

(昭和47

 

55

7月、オリジナル木版画集『暗い夕日』(南天子画廊)刊行。刊行を記念する「清宮質文展〈木版画集『暗い夕日』〉」(東京・南天子画廊)開催。9月、大阪・南天子画廊を巡回。「清宮質文・後藤愛彦硝子絵2人展」(福岡・ギャラリーふくだ)開催。

1973

(昭和48

 

56

6月、「第10回ユーゴスラヴィア国際グラフィックアート・ビエンナーレ」(リュブアナ近代美術館)に、木版画集『暗い夕日』10点を出品。

1976

(昭和51

59

11月、同舟舎時代からの友人、駒井哲郎が逝去(享年56歳)。

1977

(昭和52

60

この年、春陽会を退会。以後、無所属で個展を中心に作品を発表。

1985

(昭和60

68

この年、「小山田二郎・清宮質文・難波田史男水彩展」(京橋・ギャラリー椿)開催。2月、「現代版画の軌跡展」(福島県立美術館)に作品が出品される。12月、「1985・日本の版画」(栃木県立美術館)に作品が出品される。

1986

(昭和61

69

4月、「現代版画の表現と技法」(練馬区立美術館)に作品が出品される。10月、『清宮質文作品集』(現代版画工房編・制作、南天子画廊発行)刊行。11月、刊行を記念する「清宮質文展〈作品集出版記念〉」(東京・南天子画廊)開催。

1988

(昭和62

71

 

7月、「現代日本の版画・1950-1980」(神奈川県立近代美術館)に作品が出品される。

1989

(昭和63

72

5月、母・雪江が逝去。

1990

(平成2

73

 

8月、「近代日本の木版画展〈伝統と近代の対話〉」(神奈川県立近代美術館)に作品が出品される。

1991

(平成3

73

 

511日、心筋梗塞のため西荻窪・山中病院で逝去。7月、「清宮質文追悼展」(東京・南天子画廊)が開催される。『版画芸術』第73号で追悼特集が組まれる。12月、「EAST AND WEST1950-1960年代の版画〉」(京橋・ミウラ・アーツ)に作品が出品される。

1992

(平成4

12月、『日本現代版画 清宮質文』(玲風書房)刊行。

1994

(平成6

 

10-12月、「駒井哲郎・清宮質文二人展」(練馬区立美術館)開催。

1998

(平成10

10月、矢部登『結城信一と清宮質文』(エディトリアルデザイン研究所)刊行。

2000

(平成12

 

2月、「清宮質文展」(小田急美術館)開催。