<第6話・梅田四丁目>
「穴切」の由来
落人が見つけた安息の地
緑の穴の彼方に「楽園」
梅田四丁目の一角に「穴切(あなぎり)」と呼ばれる地域があります。ここは、むかし「穴切れ」と呼ばれていたこともあります。「穴切れ」とは変わった地名ですが、それは次のことに由来するのです。
むかしのことでした。とある合戦に敗れ、下野(栃木県)の山野を追っ手の目を気にしながら、命懸けで逃げ回り、さ迷い続けた一人の落人(おちうど・合戦に敗れた武士)が、やっとの思いで貝沢(現在の梅田町4丁目皆沢)にたどり着きました。
春の盛りもすでに過ぎ去った初夏のころでした。貝沢にたどり着きはしたものの、落人には、そこがどこのなんという土地であるのかは、知る由もありませんでした。ただただ、もう追っ手に脅える心配がなくなったことを知り、安堵するのみでした。
その安堵感は、反面、落人の体の内に、長い間に渡った疲労と心労とをドッと噴き出させました。それでも、その場に身を投げ出した気だるさの中で、落人は、これからの我が身の振り方を案じ続けました。とにかく、
「ここは、どこなのか。」
「なんとか上野の国(群馬県)へ逃れる術(すべ)はないか。」
と、いうことが気がかりでした。
そんな思案を巡らせながら、何気なく見つめた目の前のガサヤブを落人は凝視してしまいました。なんと、けもの道(けものたちの通り道)らしい小道が、雑木の間を奥へ奥へと向かっていたからです。
しかも、木々の緑の重なりが、あたかも洞穴の入口のように口を広げ、まるで落人を招き入れるかの様相を呈しているのです。
「この道の先が、あるいは上野の国?」
落人は、ふと、そう思いました。でも行く手にどんな危険が待ち受けているのかは、落人自身にも想像さえつきません。が、敗戦で一度は死を覚悟したほどの落人です。
「この道の先がどこであろうとかまわない。上野の国であることを信じて、とにかくたどってみよう。」
落人は、すぐさま、けもの道をたどる決意をしました。疲れた体内に活力・気力がもどるのを感じた落人は、ためらうことなく、けもの道の通じる樹間に足を踏み入れました。
けしながら、歩を進めることしばし・・・・・。突然、眼前が明るく開けて、のどかな農村の風景が落人の目に飛び込んできたのです。
幸運にも、そこはまさしく逃亡の日々、落人が願望し続けてきた上野の国だったのです。ガサヤブの中のけもの道が、夢にまで見た上野の国へと落人を導いてくれたのです。まさに神仏の加護以外のなにものでもありませんでした。
樹間の穴、緑のトンネルが突然に切れて、敗戦の地「下野」から安息の地「上野」へ・・・・・。この落人の話によって、この土地は、やがて『穴切れ』の名で呼ばれるようになりました。そして、幾星霜の後に『穴切』という現在の地名に改められたのです。

かつては、のどかな農村地帯だった穴切地区。菱村から、この穴切の地へと雑草を生い茂らせて続いていた細い生活の道は、先年、広い舗装道路に拡幅改良されました。桐生川をまたいでいた郷愁の木橋「穴切橋」も、デラックスな永久橋に架け替えられました。
この穴切地区の変容のかげに、地名の由来を伝える素晴らしい「落人伝説」は、残念ながら、はるか歴史の彼方へと押しやられてしまいました。今は里人のお茶飲み話にさえ登場するチャンスが、本当に少なくなってしまったようです。
でも、幸いなことに、『ふるさと創生運動』の一環として、先年、地区内の小道に「穴切通り」の愛称が贈られました。この愛称が、あるいは「落人伝説と地名の由来」を子々孫々へ伝える掛け橋になってくれるのでは−−−。そんなほのかな期待が寄せられはじめてきているのです。

<穴切地区(あなぎりちく)>
この地区は、かつては栃木県安蘇郡の一集落でしたが、昭和三十四年一月一日、菱村の桐生市合併と一緒に、梅田町四丁目に編入された所です。
しかし、実際には合併する以前から、生活の大部分を桐生市に依存してきていましたから、地区の人々にとっては合併は喜ぶべきことだったようです。
◆交通◆
KHCバス停「中居」下車。小沢洋品店前から東へ向かうと永久橋が見えてくる。桐生川に架かる「穴切橋」である。その穴切橋を渡りきると、そこはすでに穴切地区である。