《第8話・梅田町4丁目》
「避来矢」の鎧
足利家に伝わる家宝
敵の弓矢も恐れをなす
平安時代の後期(十一〜十二世紀)のころでした。足利領主・足利俊綱公(通称は足利太郎で利綱とも書く)の子に、勇猛果敢で武勇の誉れ高い足利又太郎忠綱公という武将がおりました。
忠綱公は、若くしてすでに身の丈六尺(およそ180センチ)を越し、赤ら顔の口には、大きな牙(きば)まであるという、見るからに近寄りがたい威容を備えていました。その上、発する声は一里(およそ4キロメートル)四方にまで雷のごとく響きわたるというすさまじさでした。
この偉丈夫・忠綱公の初陣(ういじん・初めて戦に出陣すること)は、治承4年(1180)で十七歳のときでした。父・俊綱公に従って平家方に参陣し、源三位頼政公の平家討伐軍を迎え撃つ宇治川の合戦が、忠綱公初陣の花道でした。
いえ、普通の若い武士たちとは参陣への意気込みが全く違いました。ですから、合戦が始まるやいなや、自ら先陣を承って頼政軍を散々に痛めつけるという、大変な武功までも立てました。しかし、この合戦で忠綱公は、上々の首尾とあわせて世にも不思議な体験をされることになったのです。
忠綱公が初陣に着用することになった鎧(よろい)は、「避来矢(ひらいや)」と呼ばれる足利家先祖伝来の家宝の鎧でした。敵の射かける弓矢のすべてが、まるで恐れおののいて逃げるかのように、その鎧を避けて飛び去るので、
「避来矢着用の者は、たとえ、どのような激戦の中にあろうとも、決して命を失うことはない。」
と、代々言い伝えられてきており、足利家のみならず、今は「天下の秘宝」ともいえる鎧でした。
その家宝の鎧を着用しての初陣に、忠綱公の心は燃えに燃えました。しかしながら、忠綱公は、実際の出陣にあたっては「避来矢」を着用しませんでした。「避来矢」は、異常なほどの重量があって、敵味方が入り乱れ敏しょうな動きと、細かい目配りが要求される戦場では、思うような行動がとりにくいことが予測され、さすがの忠綱公も着用を見合わせてしまわれたのです。ですから、合戦が始まる直前に忠綱公は、初陣の晴れの支度にと、一度は着用した「避来矢」を取りはずして自陣内の川べりに置き、別の鎧に身を包んで戦いに臨んだのです。
初陣の合戦は予想を上回る大勝利でした。忠綱公自身の活躍も冒頭に述べましたように、初陣とは思えない見事な働きで、家臣たちからヤンヤの喝采を浴びるほどでした。それだけに忠綱公は意気揚々と、そして、晴れがましく自陣に戻って来ました。が、ふと川べりに目をやった忠綱公は、その晴れがましさ喜ばしさがたちまち吹き飛んで、がく然となってしまいました。みるみる顔面そう白にまってしまわれたことからも、目の前の現象が、忠綱公には、いかに大きなショックであったことか……。それは、たしかに出陣時に自陣の川べりにドッカリと置いた避来矢、辺りを圧するかのようなサン然とした輝きを見せていた、あの家宝の避来矢が影も形もなく消え失せていたからでした。しかも、代わって白っぽい大石がデーンと居座っていたからでした。
驚いた忠綱公は、直ちに家来たちに命じて、辺りをくまなく探させ、自らも血眼(ちまなこ)になって訪ね歩きました。しかし、いくら八方手を尽くしてみても、ついに「避来矢」を見いだすことは叶いませんでした。
「初陣への心くばりに気が回り切らなかったとはいえ、なぜ、もっと慎重な扱いをしなかったか。」
「自陣内という気のゆるみは大きい。あまりにも大失態。」
予想だにしなかったこの出来事に、先程までの天に昇るかのような気分だった大勝利の喜びは、すっかり消し飛んでしまいました。忠綱公には、なんとも言えない大きなショックでした。意気消沈してしまった忠綱公が、その場にガックリと膝をつかれてしまわれたほどに、ショックの大きさは計り知れないほどのものがありました。
忠綱公は、
「避来矢は、いったいどこへ消えてしまったのか。」
「たとえ、いかに重かろうと、手柄の高望みなどせずに、初陣は避来矢を着て出陣すべきだった。」
と嘆かれ、後悔と悔しさとから傍らの大石をこぶしで二度、三度とたたきつけました。すると……目の前の大石がフッと消えて、あれほど探しても見つけ出せないでいた「避来矢」が、その所にこつ然と現れたではありませんか。あまりの不思議さ、あまりのあらたかさに、忠綱公はもちろん、家臣一同は、ただただ驚きの声を発するばかりでした。

初陣で「避来矢」の神秘さを目のあたりにした足利忠綱公は、そのあらたかな「避来矢」の守護のおかげか、以後の合戦には、常に数々の武功を打ち立てて、その名を天下にとどろかせるようになりました。
天下の剛将・忠綱公の終えんの地は梅田町4丁目皆沢です。皆沢は、四方を山々に囲まれた自然美に満ちあふれた静かな環境、風光明びな所です。その皆沢の地の「鎮守・八幡宮(別名は忠綱明神)」の神として迎えられ、今も、むかしと変わりなく里人たちの尊崇を一身に受けられておられます。

《皆沢八幡宮(かいざわはちまんぐう)》
皆沢八幡宮は、梅田大橋からおよそ4キロメートルほど奥まった地にある。祭神は足利又太郎忠綱公。忠綱公が故あってこの地で自刃(伝承では『せちもちをつかない一ノ瀬家』を参照いただきたい。)したことから、上総介義兼朝臣が、忠綱公の霊をこの地に鎮めたという。
下野神社沿革史によると、忠綱公の位官は従四位上・足利下野守(十二万石)と記されている。この神社は、昭和二十八年四月に宗教法人に認可されている。近くには桐生市指定無形文化財の百万遍念仏がある。
◆交通◆KHCバス停「落合橋」下車。そこから桐生川ダム(梅田湖)に架かる梅田大橋を渡って、一路東側の山中を目指す。落合橋下車後は交通の便がないため、4キロメートル余は徒歩となる。徒歩の道は一本道なので、沢に入らない限りは迷うことはない。人家が見えて来たら神社は目前である。