地域の宝として保存!
作物枯死の危機を救う
ある夏のこと……。桐生地方は、来る日も来る日も一滴の雨も降らない旱天に襲われました。畑の作物は、すっかり生気を失い、すでに田んぼは一面に地割れが広がってしまいました。里人たちには、もはや全く打つ手がなく、神だのみ仏だのみをするしかないところまで追い込まれていました。雨ごいの太鼓や鐘の音を連日あたりに響かせているのも、
「なんとかしなければ……。」
という、里人の必死な気持ちの表れでありました。が、暑い日差しを注ぎ続ける青空には、相変わらず雲ひとつ現れる様子もなく、お湿りの恵みを与えてくれる気配は一向にありません。
それでも、里人たちは、
「もしや。」
と、万に一つの変化が起きることを願って、辛抱強く雨ごいの祈願を続けるのでした。
そんな梅田の里へ、ある日、ほこりにまみれてはいるものの、どこか気品のある一人の旅の僧が訪れたのでした。
旅の僧は、里人たちのなんとも悲痛な声を耳にすると、
「それは難儀なことじゃのう。このようなときに拙僧が御地に参ったのも、仏縁というものじゃ。『里人の難儀をお救いせよ』との御仏の思し召し(おぼしめし)でありましょう。拙僧も皆の衆に助力いたしましょうぞ。」
と、旅の僧は、すぐさま里人たちの雨ごいの群れに入って読経を始めました。
しばらくすると、旅の僧は、里人たちの雨ごいの群れから離れ、辺りのそこここに錫杖(しゃくじょう)を立てては、静かな読経を始めました。
このような仕草を何回となく繰り返しながら、桐生川沿いの集落にやってきました。そこでも、しばし静かな読経を行っていましたが、突然、
「エイッ。」
と、低いけれど鋭い気合いもろともに、手にした錫杖を力を込めて地面に突き立てました。最初から数えると、八か所め(八つめ)の場所でした。
ここでは不思議なことが起きました。突き立てた錫杖の周りの地面が黒く変わり始めたのです。いえ、なんと地面が湿り始めたのです。しかも乾き切った地面から、すぐに冷たい澄んだ水があふれ出してきたのです。旱天続きでしたので、湧き出た水も初めは地面を黒々と染めただけで、たちまち地中に吸い込まれてしまいましたが、まもなく小さな流れをつくり始めました。そして眼下の桐生川を目指して下るようになりました。
あまりの不思議さ、あまりの神秘さに一瞬アッケにとられた里人たちでしたが、夢のような現実を目のあたりにしては、喜びが爆発しないはずはありません。たちまち歓声を挙げ、手を取り合ってハネ回り、思いもかけないうれしさをからだ全体で表し続けました。
旅の僧のお陰で辺り一帯の作物は枯死の危険を脱しました。そして、秋の稔り多い収穫が約束されることになったのです。
とめどなく涌き出る水を確かめると、里人たちの感謝の声と畏敬のまなざしを背にいっぱいに受けながら、まもなく、旅の僧は梅田の里を後にしました。
◇ ◇ ◇
「弘法大師という偉いお坊様が、貝沢(梅田町4丁目皆沢)から、梅田の里へお回りになられたそうな。」
数日後、こんなうわさが里人の耳に届けられました。
「それでは、あのお坊さまが、名高い弘法大師さまだったのでは……。」
と、里人は大きな驚きを感じとりながらも、再び、あの日の旅の僧の不思議な挙動を思い起こしました。そして、改めて弘法大師の偉大さ、慈悲の深さに対する敬愛の念を合わせた両の手に示したのでした。
大師の残された湧き水の地は、のちに里人たちによって『弘法の井戸』と名付けられました。この井戸は、どんなに日照りが続こうと水が枯れることはなく、どんな長雨や豪雨があろうとも濁ることはなく、常に清らかな水をたたえているという、たいへん不思議な井戸でした。その井戸が、今も彼の地で水の清らかさを誇りながら、訪れる人々に昔のできごとを語り続けているのです。
この井戸の誕生によって、辺り一帯の集落は「井戸谷戸(いどがいと)」と呼ばれるようになりました。『弘法の井戸のある、山岳への入り口の集落』という意味なのです。そして、弘法の井戸を『地域の宝』にし、さらに、大師が錫杖を突き立てること八回め(八つめ)に、ここを見付け出したことに因んで、
「この井戸へやってくるヤツメウナギは捕るな。捕ると目がつぶれるゾ。」
という伝えを生み継承してきました。そして里人たちは、今日も弘法大師への感謝の気持ちを新たにしながら、その井戸を大切に見守っているのです。
《弘法の井戸(こうぼうのいど)》
井戸谷戸の南端の県道東側にある。小さな井戸のため見落としがちなので、訪問の際は十分な心くばりをしたい。ここの集落には由良家家臣・風間将監の子孫が住しておられる。
◆交通◆KHCバス停「上の原(かみのはら)」下車。およそ300メートル戻った県道東側の下部にある。