相生町五丁目・蕪町〔かぶっちょう)地区に、自音寺(じおんじ)という無住のお寺があります。お年寄りの憩いの家「蕪町会館」の前を通り過ぎて、まもなくの右手に見られるお寺が、その自音寺です。
無住寺とあって、本堂は、かなりうらぶれたいますが、墓地には立派な墓石や貴重な石幢(せきどう)などを見ることができますし、また、周辺には宝篋印塔(ほうきょういんとう)、月待塔、笠付庚申塔等々、市内でも誇りうる大型の優れた石造物を多数目にすることができます。この事実は、かつては一時代を築いた由緒あるお寺であるという事を如実に物語ってくれています。
(写真は蕪町自音寺の入り口の塔です)
それらの石造物をつぶさに見ますと、古い物は元禄十二年(1699)、新しい物でも万延元年(1860)の造立の年が刻まれていますので、自音寺の繁栄のころを無言のうちに示してもいます。
その石造群の中で、ひときわ目を引く石仏があります。それは、自音寺参道入り口の右手に安置される石仏で、地元の人たちに「身より観音」の愛称で呼ばれている如意輪観音石仏です。
片膝をたてて右ひじをつき、頬に手をあてがう形(思惟形・しゆいけい)から、あちこちの町村に「歯仏さま」信仰を残す観音さまですが、自音寺の観音さまには、「安産」への御利益があるとして、地元では、長い間にわたって、安産祈願の信仰を重ねてきました。「そうですよ。ありがたい仏さんです。この仏さんのお陰で蕪町の人たちは、みんな安産でしたね。この土地の人で難産だったなんて話は、わたしゃ一度も聞いたことありませんねえ。」
地元の人たちは、皆さん、こういいます。
安産祈願に詣でる人の姿は、昭和の二十年代まではかなり見られたそうです。観音さまが建立されたのは、明和六年(1769)ですから、観音さまは、すでに二百余年もの間、大勢の女性たちの切なる願をお聞き届けになってこられたわけです。
このありがたい観音さまの御利益を受けられたのは、地元の人たちだけではありません。蕪町地区以外の人たちも大変に御利益を受けてこられたようです。「このことを耳にした近隣の人たちも大勢祈願の訪れ、観音さんの前が大変な賑わいを見せた時代があった・・・そう伝えられていますよ。」
(写真は川内町自音寺の本堂です)
こんな地元の人の言葉が、そのことを裏付けています。しかし、「お願いがかなって安産だったら、もう一度、この観音さまにお礼参りにくるのが習わしですよ。お供え物は、産婦の歳と同じ数の団子が決まりでしたね。」という、しきたりの伝えは、今では、風化しつつあります。
最近は、現代医学のすばらしい進歩によって、さすがに人の波は消え失せました。でも、時折、この観音さまの前に、お線香と供物とを見かけることがあります。
そして、それらが、あたりにホノボノとした雰囲気を漂わせています。お供物などが、安産祈願のための印(しるし)でなかったとしても、この安らぎは、やはり観音さまの霊験によるものといってよいのではないでしょうか。
(写真は川内町自音寺の入り口にある石塔です)
安産への祈り・・・・・ これは、いつの世にあっても変わることのない、女性の心からの願いです。たとえ観音さまの前から安産祈願に訪れる人の姿が消えてしまいましょうとも、観音さまの慈愛に満ちたお顔を目の当たりにするたびに、祖先からの言い伝えを思い起こし語り合う人の姿は、きっと絶えることはないでしょう。
「観音さまの前で手を合わせ、目を閉じているとね、ズーッと昔の自音寺の賑わいや、観音さまに安産の祈願をする女の人の真剣な姿が浮かんでくるんですよ。」
こういう地元の人たちの話からも、今なお観音さまの慈悲を感じている人は多いようです。
身より観音さま・・・・・ あなたも一度、自音寺を訪ねてみませんか。

<自音寺(じおんじ)>
自音寺の名称は、桐生市史にも山田郡誌にも記録されていない。また、廃寺としての記録もまったくない。しかし、立派な墓、立派な石仏の存在し、地元の人たちが自音寺と呼んでいることは事実である。堂の大きさから、本文では本堂と記述したが、あるいは庵(いおり)なのかも知れない。後説を待ちたい。
◆道案内◆
市清掃センター(現在は取り壊されて無くなっている)の入り口のところのっY字路を左に折れて、道なりに進むと間もなく蕪町会館の前にでる。そこをさらに100メートルほど行くと右手奥に自音寺の堂が見られる。「身より観音」は境内に入ってすぐの右側に安置される。