(第13話・梅田町5丁目)
根本の鐘
大鐘かついで山登り、グズ八さん 大役果たす
亨和二年(1802年)根本神社奥の院に待望の鐘楼が完成しました。遠く武州(東京・埼玉)にまで広がっていた根本信仰の神の座すお山に、また一つのシンボルが生まれたのです。
鐘楼に取り付ける鐘も、佐野天明町の鋳物師・藤原某の手によりでき上がって、すでに里宮の大正院(だいしょういん)まで到着していました。
「お山が、これで、益々の賑わいを見せるに違いない。」と鐘楼完成を祝う信徒の喜びは、それはそれは大変なものでした。
ところが、お祝いを前にして、困った問題が持ち上がってしまいました。お山の峻険なのに驚いたのか、お祝いの日が近づいても、鋳物師・藤原某が佐野に戻ったきりで姿を見せてくれないのです。
何度となく使いを走らせたのですが、藤原某からは要領を得ない返事ばかりが届けられるだけでした。
里宮に置かれたままで、何らの手も打たれない鐘に、神官・永良さんをはじめ信徒たちは、大いに苦悩しました。しかし余りにも重い鐘だけに、信徒だけでお山の頂上まで運び上げることは至難の業・・良策が全く見つからないままに、日時ばかりが過ぎ去っていきました。そこでとうとう窮余の策として「幸八なら、何とか持ち上げやしねえかねえ。」と言う話が出されました。高橋の旦那からでした。
幸八は生来の不器用と動作ののろさから、土地の人たちに「グズ八」と呼ばれている若者でした。でも根っからの正直者と大変な力持ちと言うことで、里では知らない人はいない若者でもありました。高橋の旦那は、この際だからと、そのグズ八さんの大力を活用してみることを思いついたのです。
ほかに打つ手が思い浮かばなかっただけに、人々は、高橋の旦那の意見を取り上げることにしました。そして、その事は早速、グズ八さんに伝えられました。
でも、たとえ力自慢のグズ八さんといえども、八十貫(およそ300キログラム)もの重い鐘をかついでの山登りは危険この上もないことが予想されました。
ですから、信徒からこの話が伝えられた時には、グズ八さんの家族は、みんな大反対をしました。とりわけ女房のマサさんは絶対反対でした。
ところが、どうしたことか、いつもは家族の言いなり放題のグズ八さんが、この相談が届けられると、すぐに「わかった。オラ、やってみるよ」と生き生きとした顔を見せて、引き受けてしまったのです。
根本のお山は、ふもと近くの一丁と言う道しるべから、すぐに石段が続いていました。その石段をグズ八さんは歯をくいしばって登って行きました。背中の鐘は予想以上に重く、肩に食い込んで来ます。苦しいとか、痛いなんて言う事はとうに通り越していて、目の前が時々ボーっと霞む事さえありました。でも家族の反対を押し切って自ら引き受けた大役です。グズ八さんはどんなに苦しかろうとどんなに辛かろうと、大役を途中で投げ出す訳には行きません。ただ、もう一歩一歩確かめるように足を運ばせるだけでした。
鐘をかつぎ、歩みはじめてから、もう一時(いっとき)余り過ぎ去りました。滝のような汗で全身がグッショリとなったグズ八さんの目に、ようやく岩上の奥の院の姿が飛び込んできました。
「ようしあとひと息だぞ」
疲れ切ったグズ八さんの重い足取りに、再び力強さが戻って来ました。そんなグズ八さんの姿を木の間がくれに見つけますと、奥の院で待ち構えていた信徒の何人かが、転げるように駆け降りて来て、グズ八さんを元気づけ励ましました。みんなグズ八さんの身を案じて待っていた人たちばかりでした。
その心がグズ八さんににも痛いほど伝わってきて、グズ八さんの歩を一層確かなものにしてくれました。とうとう、奥の院の鐘楼そばに鐘がドッカリと置かれました。詰めかけていた信徒の間からドッと歓声が挙がりました。
その歓声を背にして、グズ八さんは、更に頂上への細い道を歩みました。両側にはヤマツツジが真っ赤な花を開かせて山肌を彩り、山頂まで続いていました。
「マサよ。おらァ、やったぞ」
グズ八さんはそうつぶやくと、思いっきり大きく両手を大空に向けて伸ばしました。
一生一代の大役を見事に成し遂げたグズ八さんの、大きな大きな喜びの表現でした。

根本の鐘(ねもとのかね)
根本の鐘は、残念ながら現存しない。本文中に掲載した写真で、往時の形態を偲ぶばかりである。かつては、その鐘に次ぎの銘が刻まれていたと言う。
「奉納 根本山神官 本世話人 入彦間村中 佐野天明住鋳物師取次 世話人 深沢屋市郎左衛門
鋳物師 三木忠右衛門作之 本世話人 上州山田郡山地村中」
◆交通◆
KHCバス終点「石鴨(いしがも)下車。そこからは徒歩となる。徒歩で2、5キロメートルほど行くと根本山登山口に着く。根本山奥の院までは、登山口から一時間三十分程度。
清水義男氏著「河童とアメ玉」より転載 原稿作成 写真撮影 小川広夫