大増水の川が越えられず薊村に安置して布教活動
桐生市の南西にあって、新田郡笠懸町と隣り合わせる町が相生町で、その相生町の東武赤城線・新桐生駅やデパートの西友、改築成った市立桜木小学校を有する地域を相生町1丁目といいます。
この相生町1丁目というのは、桐生市合併以降の町名で、明治22年以前は「如来堂村」と称していました。他地区の人々は、この『如来堂村』という村の名を耳しますと、「ほう、珍しい村名ですね。」と、とても興味を示してくれます。
(写真は国道122号から見た如来堂歩道橋です)

この「如来堂村」という珍しい村名の由来は…。
鎌倉時代(1182〜1392)の昔にさかのぼります。仁田山(現在の川内町)に荘司・園田太郎成家という武士がおりました。その成家が大番役で都(京都)へ上った際、法然上人に出会われ、上人の得を慕って仏門に入られました。後に小倉(おぐら)の上人とあがめられるようになる智明坊(ちみょうぼう)が、誕生したのです。
智明坊は、法然上人のもとで、厳しい修行を6年間も重ねられた後、その教えを故郷に広めようと、元久2年(1205)、法然上人のもとを辞して、帰国の途につきました。そのときに、かつては天智天皇の護特仏だったという、由緒ある阿弥陀如来像を上人からいただいて牛の背に積まれ、仁田山への歩みを急がせました。(写真は如来堂報身寺の山門・仁王様です)
長い長い旅が重ねられ、ようようの思いで一行が藪塚(新田郡)まで到着したときでした。如来さまを背に、はるばる都から智明坊のお供をしてきた牛が、突然ドーッと、その場に崩れ落ちてしまいました。智明坊一行の手厚い看護の甲斐もなく、牛は息を引き取ってしまいました。さすがの牛も、重くて大きい如来さまを背にした長旅には耐えられまかったのでしょう。
智明坊は、その場で懇ろに牛の霊を弔う(牛の塔建立)と、新たに屈強の牛を求めて、心はやるがままに、その歩みを速められました。しかし、悪いことは重なるものといいます。仁田山への入り口にあたる渡良瀬川がにわかの増水で、渡ることができなくなってしまわれたのです。
赤石の渡しの渡し守たちも、
「この長雨のことだ。渡良瀬川の水が引くメド(あて)なんか、まったくたたねえ。当分は旅籠(はたご・宿屋)で待つしか仕方あるめえ。」
といいます。
故郷いりへの心が急ぐからと言って、一行には、増水した川を渡る手だてなど全く考えも及びません。
智明坊は、やむなく薊村(あざみむら、如来堂村の古名)の手ごろな塚の上にお堂を建てて、しばらくは如来さまを安置することにしました。そして、仁田山での布教に先立って、まずは薊村での布教活動に入られました。
(写真は如来堂歩道橋です)
如来さまを安置した塚は、周囲にグルリとシダレザクラが植えられてありましたので、里人に「桜塚」と呼ばれていた場所でした。その桜塚に如来様が祀られてからというものは、智明坊の布教の深まりとともに、村内のあちこちでありがたい霊験が顕薯にあらわれるようになりました。
里人たちは、
「なんとも有り難い仏さまだ。」
「これほどのご利益(ごりやく)をお授けくださる仏さまには、ぜひとも、この土地に長くおとどまりいただきたいものだ。」
と語り合い、これまでの「薊村」から「如来堂村」へと変えてしまったのです。
「珍しい村名ですね。」
と、人々に言われる如来堂村には、こんなにも素晴らしい『村名命名』の由来があったのです。
いま、川内2丁目・崇禅寺(臨済宗、元久2年=1205=創建)に、崇禅寺のご本尊として、また群馬県指定の重要文化財として、手厚い保護のもとで安穏な日々を送っておられる阿弥陀如来さまがあります。昔も今もかわりない慈悲のまなざしを私たちに注ぎつづける、その如来さまが、実は、むかぁし、薊村を如来堂村へと改称させた「ありがたい仏さま」ご本人なのです。

<如来堂村(にょらいどうむら)>
如来堂村は、明治22年4月に5か村が合併して、相生村が誕生した際に「山田郡相生村大字如来堂」となり、昭和29年10月1日に桐生市に合併して、現在の名称である「桐生市相生町1丁目」となった。
国道122号線が、町内を貫通して走っている交通量の多い地域だが、山田郡当時の人情の深さを今も色濃くとどめている。繊維産業が不振になってしまった現在もなお、たくさんの機屋(はたや)が見られ、織都の面目を保っている。