黄金千杯朱千杯
桐生氏財宝の埋蔵説伝える
無形の宝は「ふるさと」
「朝日さす/夕日かがやく/雀のみよとりのところ/黄金千杯/朱千杯あり」
この唄の文句と一枚の古地図を頼りに、茂兵衛さんは、今日も一生懸命に桐生家財宝発掘の作業を続けました。慶応の年号が、明治と改められて間もないころのことでした。
「出ないなあ。」
「ここも違うのか。」
全財産を投入してまでも、発掘に取り組んだ茂兵衛さんでした。それだけに発見には、かなりの自信をもっていたはずでした。しかし、掘っても掘っても目指す財宝は、そのかけらさえも姿を見せてくれないのです。日がたつにつれて、茂兵衛さんにはイラダチとアセリが目立ち始め、そして、口をついて出るのが、いつも落胆と弱気の言葉ばかりになりました。
やがて、とうとう発掘現場から茂兵衛さんの姿が消えてしまいました。発掘に生命をかけ、朝は暗いうちから山に入り手元が見えなくなるまで、ここぞと思われるところを目一杯に掘り続けてきた茂兵衛さんでしたが、ついに財産が底をつき、さすがの茂兵衛さんもついに力尽きてしまったのでした。
茂兵衛さんが、心血を注いで発見につとめた財宝のありかは、室町時代の末期、北関東に武威を示した桐生氏の居城「桐生城」の跡でした。この桐生城跡に、本当に財宝は埋蔵されていたのでしょうか。
「そりゃあ、真からのウソっぱちだな。ワシは、そう思うよ。今だって、家を一軒おっ建てりゃ、棟梁が、その家の繁栄のために祝い唄の一つや二つは唄うがな。ましてや一国のお殿様のお城ができあがるんだ。素晴らしい祝い唄が出るのは当たりめえだよ。宝なんてありっこねえさ。」
『ありっこねえさ』に特に力を入れて、地元の向田さんは、財宝埋蔵説を真っ向から否定するのですが……。さて?
財宝埋蔵説は、単なる語り草だけでなく、湯沢(梅田町一丁目)栖松寺(せいしょうじ・梅田町の旧家、青木家の菩提寺)の東南にあった大きな岩に、財宝のありかを示した冒頭の唄が彫られていたというのですから、埋蔵説を信じる人も少なくはなかったのです。それだけに、茂兵衛さんならずとも、一度は、
「オレも、宝探しをやって見ようかな。」
という気になってしまうのです。
◇ ◇ ◇
桐生城跡……。今は、桐生八勝の一つとして、また桜の名所として公園化され、桐生市のシンボルになっています。そのためか、春先から初冬にかけて、この地を訪れる人が、ことのほか多くなってきています。
しかし、その目的は単なるハイキングだけではなさそうです。
「本丸跡の樹齢・数百年の赤松の松籟(しょうらい・松の枝を渡る風の音)には、俗世の悩みが洗われますよ。」
「本丸跡から見下ろす桐生市の景色は、本当に美しい。感動を覚えます。」
と言う声が、それを裏付けています。
全財産をなげうっても茂兵衛さんは、ついに桐生家の財宝を手にすることはできませんでした。しかし、現代に生きる桐生市民は、松籟に酔い、故郷の美景に心を打たれると言う、幻の桐生家財宝にも勝る「無形の財宝」をしっかりと、両の手にとらえているのです。
《桐生城跡(きりゅうじょうし)》
観応元年(一三五〇)に桐生国綱公によって築城され、天正十八年(一五九〇)、由良氏が常陸・牛久に配置換えになり廃城となるまでの二百四十年間、桐生氏・由良氏の居城として栄えた。永禄三年(一五六〇)10月には、前関白・近衛前久(竜山)公の入城を得ていることからも、当時の桐生氏の武威のほどが忍ばれる。
◆交通◆KHCバス停「城山入り口」で下車。そこから西に上ると30〜40分ほどで頂上に到達する。同バス停「観音橋」で下車して30メートル余戻ると「桐生城跡入り口」の看板が立つ。そこから右折してもよい。両登山道は途中で合流する。