《第9話・梅田町4丁目》
セチ餅つかない一ノ瀬家
金輪際キネは持たない
他言の悔恨伝える家訓
建久七年(1196)の年の瀬のことでした。この年の瀬は、殊の外寒さが身に染みる冷えきった気候でしたが、皆沢(かいざわ・梅田町4丁目)地区の旧家・一ノ瀬家では、その寒さの中にもかかわらず、御主人夫婦は朝早くから、すでに額に汗を光らせて、新しい年を迎える餅つきに精をだしていました。
冬の陽が、ようやく窓から土間に差し込むころには、一ノ瀬家の大量の餅つきも、いよいよ残りわずかになりました。
「もう少しだね。先が見えてきたよ。」
ご主人がホッとして、一服を始めたときでした。峠の彼方から、かなりの数の馬のひずめの音が近づいてきて、一ノ瀬家の門前に止まったのです。そして、門の扉を荒々しくあけ放した一団の武士が、いぶかしがるご主人の前に立ちはだかりました。
驚いてキセルを手にしたまま、腰を半分浮かしているご主人に、大将らしい武士が歩み寄り、金のつばを握らせると、
「われら一行が、この地にやって来たことを他の者に決して他言するでないぞ。」
と、言い置いて、即座にきびすを返し岩沢の方角へと走り去って行きました。
それから小半時も過ぎたころだったでしょうか。今度は弓矢を携えた武士の集団が、またまた一ノ瀬家へ立ち寄ったのです。
そして、
「亭主に、ちとものを尋ねたい。この家の近くで騎馬侍の一行を見かけなんだか。一隊らしきひずめめの音を聞いたということでもよい。もし、存じおるならば、どの方角へ去ったかを教えてくれい。」
と、無理やりにご主人に小判を握らせて、性急に回答を迫りました。
ご主人は、すぐに「これは、さっきのお侍たちの追っ手」と感づきました。それだけに、目の前の武士たちに、先程のことを教えるわけにはいきません。ですから、ただただ驚きの様を装うばかりでした。
でも、ご主人のどことなくぎこちない態度に、追っ手の武士たちもそれと察したのでしょう。腰の大刀をギラリと抜いてご主人に突き付けました。
「そちは存じておるな。隠すとためにならぬぞ。」
と声高に、そして恐ろしい権幕で、ご主人を脅しはじめました。
ご主人は、あまりの権幕から心底恐ろしくなってしまい、ヘタヘタと、その場に崩れ落ちると、手にしていたキネで思わず岩沢の方向を指してしまいました。

「岩沢で立派なお侍が、大勢のお侍に雨あられのように弓矢を射かけられて、亡くなられたとよ。」
という話が、ご主人の耳に届けられたのは、日没後間もないころのことでした。
「ワシが、たって『知らねえ』と言えば、死なねえですんだものを……。お侍さま、すまねえ。これからは、ワシぁ金輪際キネは持たねえだよ。」
ご主人は、かたわらにあったキネを土間の隅に放り出すと、悔恨の涙にくれました。
岩沢で討たれた立派なお侍は、足利又太郎忠綱公という近隣に名の知られた武将でした。忠綱公は、足利の殿様・足利義兼公の正室・時子の方との不義密通があったという、密告から追っ手に追われていたのでした。でも、間もなく、それが腰元・藤野の虚偽の密告とわかり、すぐさま早馬が走ったのですが、使者が皆沢に着いたときには、すでに忠綱公の落命の後となってしまいました。
忠綱公のご主君・義兼公が鎌倉へ出府し、長らく館を空けたことがありました。その義兼公の留守中、時子の方のおなかが、あたかも妊娠したかのように膨れてしまったのです。
それを見た腰元の藤野が、
「時子の方のおそば近くにお仕えしていた忠綱公が、不義密通したため。」
と、義兼公に密告したのでした。
義兼公は烈火のごとく怒り、即座に忠綱公の首をはねることを家臣に命じました。一方、時子の方もかけられた疑いを晴らすことができず、あまりの無念さに、
「わらわの死後、わらわの腹部を切り裂き改めよ。」
と遺言して自刃されてしまいました。
時子の方のおなかは、遺言どおりに改められました。すると、おなかからは、なんと、たくさんの蛭(ヒル)が出て来たのです。
義兼公が留守中に、時子の方は春の野で一日を楽しんだことがありました。そのおり、のどの渇きを覚えて、藤野の差し出した水を飲んでいました。
おなかの膨れは、そのときの水の中にあった蛭だったとわかり、やっと両者の疑いは晴れました。しかし、すべてが後の祭り……取り返しのつかない結末になってしまったのです。あたら最愛の奥方と忠臣とを一挙に失ってしまった義兼公の落胆ぶりは、察してあまりあるものでした。
藤野は、ふだんから忠綱公に大変心を寄せていました。けれど、お勤め大事とする忠綱公が全く取り合わなかったために、ありもしない不義密通をデッチあげて、義兼公に密告をしたのが「事件」の原因でした。
不義密通の疑いは晴れました。しかし、非運に泣いて若い生命を岩沢で散らしてしまった忠綱公……皆沢の人々は、あらぬ疑いから、ここ皆沢を終えんの地としてしまった忠綱公を、やがて地域の守り神「八幡様」として迎え祀りました。今に伝わる皆沢八幡宮がそれです。
かたや、一ノ瀬家では、この事件以来、『以後は絶対にセチ餅をつかぬこと』を家訓と定めて、子々孫々にまで固く守り通させました。もちろん科学万能の現代をむかえても、この家からは、年の瀬といえども餅をつく音は全く聞こえてはきません。
ご先祖が示された家訓は、今もって厳しくしっかりと守り続けられているのです。

《皆沢八幡宮(かいざわはちまんぐう)》
前出の「避来矢の鎧」を参照されたい。
《一ノ瀬家(いちのせけ)》
八幡宮から更に田沼町方面へ300メートルほど進んで右折。そこから100メートルほどで右側に見えて来る家が一ノ瀬家である。
◆交通◆「避来矢…」の項を参照されたい。
文章入力・橋本