第24話・川内町5丁目
山田奴の悲しみ
白瀧姫急逝に呆然打ちひしがれた夫 白瀧姫をめとる想いがかなった山田奴が、姫を伴って勇躍、奈良の都を旅立ったのは、永久年間(1113〜1117)だったと言われています。
奈良の都から山田郷への旅は、相思相愛の二人旅でした。とはいえ、ふるさと山田郷(今の川内町)を目の前にしたときのお二人は、さすがの長旅に心も体も綿のように疲れきっていました。
お二人は、山田郷入りを目の前にして、その疲れきった体を桐生峠(現在の小倉峠)でしばし休めることにしました。そこで四方の景色を眺めながら、お二人は、奈良の都での思い出、これから永住をする山田郷での暮らし方などなどを語り合いました。
(写真は白瀧神社入り口の石塔・看板です)
その語り合いの中で、山田郷の景色をご覧になった白瀧姫が、懐かしそうに、「遙か彼方に見えるは、京の都の小倉(おぐら)に似た山なり。」といわれました。すると、山田奴がそれをすぐ受けて、「さらば、今より彼方の山を似田山(現在の仁田山・にたやま)とし、その下に拓けたる地を小倉といわん。」と答えました。
このお二人の語らいによって、後日、そこに仁田山、小倉の地名が生まれることになるのです。 万事こんな調子のお二人の仲むつまじさは、やがて近郷の評判にまでなるほどでした。評判は、仲むつまじさはだけではありませんでした。
(写真は山田川に架かる「白瀧橋」の欄干です)
都育ちの白瀧姫の豊富な知識と身につけていたいろいろな技術が、里人たちの生活・仕事に様々な刺激を与えたのです。この白瀧姫からの影響は、山田郷の人々にとっては、まさに天からのなによりの贈り物と言え、地域のさらなる文化向上を見るにいたったのです。
とりわけ、白瀧姫の伝えられた養蚕と、機織りの技術は、山田郷にしっかりと根を下ろして、その後、この地方の中心産業の一つにまで発展しました。山田郷が「桐生織物発祥の地」と、称される所以(ゆえん)です。
このように、土地のためになることは、自分のことを省みずにつくした白瀧姫でしたが、「形ある物は必ず消滅し、生ある物は必ず死す。」の例えどおり、ふとした病がもとで倒れた白瀧姫は、山田奴や多くの里人の心からの祈りもむなしく、ついに不帰の人となってしまわれました。大きな星の輝きが、突然ボッと消えてしまったよう、心のよりどころをフイに失ってしまったよう。
・・・・白瀧姫の死は、そんな空しさ、虚脱感で、しばしの間、ここ山田郷を覆ってしまいました。 その後、白瀧姫は里人の手によって仁田山(現在の川内町5丁目)に「機神様」として祀られはしましたが、最愛の妻を失った山田奴の嘆きは、見るも哀れでした。
(写真は参道から石段を登るところ)
やがて、山田奴は、「水の泡 消ゆるこの身は 白瀧の 今は落ちつる 岸の岩本」の句を残して、いずこかへ姿を消してしまいました。
でも、二ヶ月余りが過ぎますと、どこからともなく山田奴がコツゼンと現れるようになりました。そして、白瀧姫の墓前にたたずんで、寂しそうに悲しそうに時を費やす姿が見られるようになりました。また、帰りに機神神社の前の大岩(降臨石)の元で、しばしの間、シーッと座っていることも多くなりました。
白瀧姫の生前、生き生きと生活していた山田奴の姿をを思い出すにつけ、この打ちひしがれた墓前の山田奴の悲しみの姿を目の当たりにして、里人たちは、「気の毒にな。あらほど愛していた宝(白瀧姫)を失ってしまったのだから・・・亡くなったとは思えないんだろう。」「山田奴は、あの大岩のもとに、姫の形見の品でも埋めにこられたのではないだろうか。」「姫の思い出を消すことができないのに違いないよ。」「あきらめることができないのだろうな。」などと、語り合いました。
(写真は、石段を登ると白瀧神社の鳥居・社殿が見える風景)
白瀧姫の生前を偲んで、大岩のもとに座り続ける山田やっこ・・・・その姿から、里人は付近一帯を「岩本(いわもと)」と呼ぶようになり、やがて、この辺りの現在の地名「岩本」のもととなったのです。

<白瀧神社(しらたきじんじゃ)>
白瀧神社は、白瀧姫のほか十余柱の神々を祀る機業家の守護神である。創立年は不詳。白瀧姫と山田奴(舎人・とねり)との出会いは、伝承によれば、桓武天皇の御代の延暦時代(782〜805)とも言われる。
<降臨石(こうりんせき)> 降臨石は、むかし、七夕の夜、空から降ってきたと伝えられる大岩で、岩に耳を当てると機音(はたおと)が聞こえてくるという。「降臨石の小僧」伝説も残る。
(写真は:「白瀧宮」の文字が見えます)
◆道案内◆市立川内小学校からさらに県道駒形・大間々線を300メートル余り進むと、右手に白瀧神社の石柱が見えてくる。そこを右折すると白瀧橋の前方に白瀧神社後望まれる。